2014年5月20日火曜日

臨床における「現実」とは何か? (6)

真実さの続き。
昨日はこんなことを書いた。「それでは臨床における真実とは何か。それは患者が治療者に対して、その技法的な熟達を期待する一方で求める「本物らしさgenuineness」に関わる。そこには治療者が自らの立場に防衛的にならずに、真摯に患者と関わる態度が含まれるであろう。また治療者の人間らしさや自発性も関係している。そしてそれは治療関係において両者が互いの「現実」に向き合い、「共同現実」の儚さや現実の悲劇性を共有する素地を提供する。その意味では真実とは現実の過酷さを代償するものとして両者が追及するものであるかもしれない。」
でもそもそも真実ってなんだ?恐らく治療における真実は、自分とは何か、何が問題なのか、どうしたら安寧 well-being を獲得できるのかという問題意識としてあるのであろう。その意味では分析治療はそこに向かう作業なのである。そしてそれは治療者との共同作業で向かうべき問題なのだ。私はそれは究極の現実との遭遇、そしてそれは別れ(終結)であり、死であると思う。そしてそのためには治療者の真摯さ、率直さ、偽りのなさが必要になるのだ。どうしてだろう?テクニックだけを用いてもいいではないか?コンピューターのプログラムでもいいのでは? ケータイの「分析アプリ」?でも現実の照合というものであるである以上は、血の通った人間でなくてはならない。

そこでホフマンが問題にしているような治療者の人間的な側面や自発性はどのように関連するのか。治療者自身が技法と人間的な側面の弁証法を体現する以外の何物でもないから、というだろう。現実的な話、そんな大事な仕事をするのに、しかめっ面しい治療者と毎日対面するのはごめんだね。治療者はフツーじゃなきゃ。特に優しい、とか、特別共感的とかである必要はなくても、正直であってくれなくては。そう、正直さ、かな。欺瞞がない、というか。じゃないと現実の追及なんてつらい悲劇的な仕事をできないではないか。
そうか、治療における真実とは、近づきがたい現実に最終的に接近する地点を意味するのだろう。そしてそのために必要なことは治療者の正直さ、真実を追求する姿勢でもあるのだ。しかし正直さって全然学術的じゃない。学会でこんなことを言ったら笑われるだろう。真実って、こうやって現実と折り合って生きていこう、という方針なのだ。その追求にどうしても治療者の正直さが必要になってくる・・・・。うん、少しわかった気がした。ナンのこっちゃ。