2014年5月15日木曜日

臨床における「現実」とは何か?(1)


 大人の事情はいつやってくるかわからない。それが現実というものだ。ン? 現実? それがテーマである。この現実というテーマ、私は以前かなりこだわっていた時期がある。
15年ほど前だ。だから「中立性と現実」(岩崎学術出版社、2002)という本を書いたくらいだから。そのとき書いたことは、別段本を読み返さなくても大体出てくる。(まあ、自分で書いた本だからね。当たり前だ。) それはこんな感じだ。右の欄にも付け加えておいた。
まず現実と「現実」(カッコつき現実)をわける。現実とは、決して直接捕捉できないものだ。ここら辺はいいかな? 目の前にあるバラの花を思い浮かべよう。その赤い色は紫外線だけを当てたら出てこない。暗闇の世界でも意味を持たない。色盲の人にも意味を持たない。だから赤い色という属性は本質的ではない。大きさは? 人間にとっては手にとってにおいをかぐような手ごろな大きさだが、蟻ンコにとってはトンでもなく巨大だし、ゾウにとってはそれこそ私たちにとっての蟻のような大きさであり、踏みつぶせばおしまいだ。ということでどれも本質的な属性ではなくなってしまうとするなら、言葉で表しても、カラー写真でとってもそれを伝えられない。いや、その「源」は確かにあると思うよ。でもそれがどのように感知されるかは主観により全く違う。畑に自生してしまうバラは、雑草扱い、という地方もあるかもしれないし。(聞いたことないな)

そこで「現実」、すなわち鍵カッコつきの現実はどうか?それは主観的な体験として意味を持つ。生きていることとは体験することで、バラの花を観賞するのもその一つである。そのとき目に映り、においを発散しているのは、確かな体験として残る。だから「現実」は主観的に体験でき、表現できる。というか、それを「現実」と呼ぶのだ。

さてこのように分けると、私たちの体験はほとんど、というか全てが「現実」となる。いちいち鍵カッコをつけるのは面倒だが、これをせっせとつけることで「現実」は結局は主観的なものでしかない、ということを自覚し続ける、ということになるわけだ。まあ、一回目はこのくらいでいいか。