2014年4月30日水曜日

私の夢理論(2)

ここで「脳から見える心」第7章 夢と脳科学を参照したい。なんだ、結構書いているじゃないか。今でも全く同じことを書くと思う。以下は同書の引用。(中に、さらに引用をしている部分がある。私自身の孫引きである。ということは数年前から同じことを言っているということだ。進歩がないな。)
今朝は壮大な夢を見て目が覚めた・・・。起きてしばらくはそのパノラマのように展開する内容を思い出し、そこに暗示された様々な真理(のごとく感じられるもの)の奥深さに胸打たれ、自分はなんと凄いものを見たのだろう?と呆然としている。しかし・・・・感動の記憶を残したまま細部がどんどん抜け落ちていく。そのうち、「あれは何だったんだろう?」と首をかしげながら布団から抜け出すのである。
 夢の過程は、私たちの精神活動の中で最も複雑なもののひとつである。その内容は奇抜で、時には意味シンで暗示的で、時にはグロテスクでまったくナンセンスである。これこそがネットワークの自律性のひとつの典型的な表れといえるのだ。しかし心の臨床では、やはり夢は別格の扱いを受けてしかるべきであろう。そこでここに新たに章を設けて、夢の問題について論じたい。
 フロイトが作り上げた精神分析理論は、それがきわめて秩序だった意味の生成過程であるという前提の上に成り立っていた。それ以来精神分析家の多くが、そしておそらくそれ以上に多くの患者が、夢の内容から意味を見出そうとして頭を悩ませてきた。(この傾向はもちろんユング派の方に顕著であろうが、私は詳しくないので語ることが出来ない。)しかし夢の理論がフロイト以来長足の進歩を遂げたということを私たちは聞かない。たとえば「葉巻という夢の内容が1990年代において何を最も象徴しているかについての実証的な研究」・・・・などというものは存在しないのである。 
 そのような夢の研究の歴史に、一つのセンセーショナルな影響を与えたのが、ハーバード大学のマッカーリーとホブソンの提唱した「賦活化・生成仮説」というものである。(アラン・ホブソン (), 冬樹 純子 (翻訳夢の科学そのとき脳は何をしているのか? (ブルーバックス) [新書] 講談社 2003
1977年の説であるから、35年前ということになり、もう相当古い説だ。実はこれは前書「脳科学と心の臨床」に短い形で記載してあるので少し引用しよう。
アラン・ホブソンというハーバードの研究者は,1970年代に,夢に関する独自の仮説を提出した。それが賦活化・生成仮説activation-synthesis hypothesisと呼ばれるものであった。REM睡眠中は主として脳幹からPGO波といわれるパルスがランダムに脳を活性化し,それが夢と関係しているのではないかという説である。脳はいわば自分自身を刺激してさまざまなイメージを生み出し,それをつなげる形でストーリーを作る。それが夢であり,その具体的な素材には特に象徴的な意味はないというわけである。
 ホブソンはまた,睡眠中の神経伝達物質の切り替わりにも注目した。覚醒時に活躍する神経伝達物質であるノルエピネフリンとセロトニンは,REM睡眠中はアセチルコリンへとスイッチすることで,運動神経の信号は遮断されることになり,体は動けなくなる。またノルエピネフリンとセロトニンは理性的な判断や記憶に欠かせないが,それが遮断されることで夢はあれだけ荒唐無稽で,しかもなかなか記憶を残すことができないという。
 この仮説は少なくともそれまで多くの人に信じられていたフロイトの仮説に対する正面切ったアンチテーゼということができる。


2014年4月29日火曜日

私の夢理論(1)


ここからは語り口調になる。
私は臨床家である以上、当然患者さんの夢にも興味を持つが、もちろん毎晩目の前で繰り広げられる私自身の過激な夢が一体どういう仕組みで起きてくるのかについてもきわめて興味を持っている。しかしそれが理解できたという感覚はほとんどない。毎晩意味が分からないものを見せられてよく平気なものだ、何らかの形で夢に意味づけを行おうという努力をしないのか、と言われそうだが、実は私たち人間は不可解なもの、予想不可能なものに始終遭遇して慣れてしまっているのだ。
ここから少し夢の話とはずれて、予測不能性の話になるが、私にとっては夢の意味を考えるうえで重要である。たとえば私たちはひと月後にピクニックを計画するとしよう。実際にはその日がポカポカ陽気になるか、台風に見舞われるかはわからない。しかしとりあえずは計画し、当日の天気をそのまま受け入れて生きていく。もちろん雨が降ったらピクニックは中止になるかもしれないが。天気だけでなく、私たちの健康状態、株価の変動、うちの奥さんの機嫌など、私たちは分からないことの中で生きているのである。
私が最近つくづく思うのは、人間が持っている曖昧さや予測不能さに対する耐性である。私たちは予定していたピクニックが雨で台無しになったからと言って自殺者を出すことなく、この予測不可能な世界を生き抜いていく。それは人間が住んでいるこの自然が巨大なカオス(正確に言えば複雑系、ということであるが)で本来予測不可能であるという性質を有しているからに他ならないであろう。私たちの体験の大部分は予測不可能なのである。それでも私たちは動じない。それは予測不能さに対する耐性を持っているからだというのが私の考えだ。なんか同じことをぐるぐる言っているな。
ところで私たちのもう一つの性質がある。それは意味を見出さずにはいられないという性質である。これはかなり堅固(ケンゴ)な形で私たちの心に備わっている。患者さんが夢を報告した時のことを考えよう。私たちは早速ノートにペンを走らせ、その意味を知ろうとする。この差は一体なにかよくわからない。ただ言えることは、複雑系にいる私たちだからこそ、どこかに目をつけてそこに意味を見出すという行動に出るのかもしれない。
そう、夢に対する私たちの扱い方は、私たちが毎日見る夢の大部分に、少なくとも意味を見出そうという努力については無関心であると同時に、臨床で報告される夢の意味を見出すことには性急であるというこの対比なのかもしれない。そしてここに私たちの思考の本質的な性質があると思えるのだ。

2014年4月28日月曜日

フォサーギ先生の夢理論(12)


創造性について
夢は連合している要素にさらに新しい結びつきをもたらす。それが創造性というわけだが、いったいどのようなことが脳内で起きているのだろうか?そこで関係しているのが、コリン系とノルアドレナリン系の神経伝達の変化であるという。ここら辺、脳の知識がないとチンプンカンプンかもしれないが。レム睡眠中は、海馬の高濃度のアセチルコリンが、海馬から大脳新皮質へのフィードバックを抑制する。そして新皮質の低いレベルのアセチルコリンンとノルアドレナリンは、そこでのニューロンのつながりを促進する。これは覚醒時の脳の活動と非常に異なるという。
ちなみにアセチルコリンは橋や基底前脳basal forebrain から出て、大脳皮質の脳波の周波数を高め、脳は全体のdesynchrony つまり非同調を生む。わかりやすく言えばθ波とかδ波を少なくするのだ。これらは徐波、というが、睡眠中はこれらが多くなる。
ウン。自分でもわからなくなってきたぞ。アセチルコリンは、その活動が増すのが、覚醒時とレム時であるという。つまり徐波が起きないわけだが、レムの時の脳波は起きているときの脳波に似ているので、これは理屈に合う。そしてコリンを抑える薬(抗コリン剤、あるいはその作用のある抗鬱剤など)でレムが抑えられるというのも辻褄が合う。
こんな感じかな。レム時にはアセチルコリンが出てアミン(ノルアドレナリンなど)はシャットダウンする。それは海馬から大脳皮質への「抑制」を解き放つので、夢はあれほどにおかしな、新奇な、創造的な内容となる・・・・。


2014年4月27日日曜日

フォサーギ先生の夢理論(11)

フォサーギ先生の論文を読んだということにして、もう少しレムについて調べたい。だって、夢って不思議なんだもん。それにフォサーギ先生の説明では納得していない。(英語で書かない限り、いろいろ言えるのがいいな。)

英語のWikiで"Rem sleep" の項を参照しつつちょっと復習をしてみる。レムの時、脳で「レム睡眠オン細胞」が活動しているという。橋の被蓋野というところにあるニューロンだという。そしてその間、いわゆるモノアミン系の伝達物質(ノルエピネフリン、セロトニン、ヒスタミン)が完全に遮断されるという。そのせいでレムの最中は完全に筋肉の緊張がなくなってしまう。ちなみにこの仕組みが障害されると、レムの間に行動を起こしてしまい、大変なことになる。さて、レムの機能は十分に分かっていないが、いくつかの仮説があるという風に述べられている。
 記憶に関連した仮説

手続き記憶の固定に役立っているという。しかしこれも微妙らしい。抗鬱剤の多くはレムを遮断する傾向にあるが、それで学習効果が薄れるという研究はないという。さらにはレムは「アンラーニングun-learning」(逆学習、反学習)にかかわっているという。どういうことかというと、ニューロンの結びつきの中で不必要なものを取り払い、必要なものを強化する、という。要するに記憶の中でノイズにあたる部分を除去し、純化していくようなプロセスであるという。なるほどなるほど。
中枢神経系の刺激についての仮説

特に新生児でレムが多いことなどから、中枢神経を刺激し、神経細胞の発達を促進しているのではないか、という説があるという。初期にレムを遮断した動物は、脳の発達が阻まれ、精神的な異常をきたすという。なんか説明がよくわかんないや。
防衛的な不動状態の延長、という説
これは恐怖対象に出会った時のいわゆるフリージングが延長したものであるという説らしい。レムの際の生理的な反応と、点滴に出会った時のフリージングの状態がかなり近いという研究があるらしい。
他にもいろいろあるらしい。モノアミンのシステムがシャットダウンすることで休んでいるのだという説。


2014年4月26日土曜日

フォサーギ先生の夢理論(10)

3.夢の内容を翻訳したり、何か別のものが置き換わっていると見るのではなく、それが何を象徴しているかを考える。個々のイメージとは夢の文脈に埋め込まれた単語のようなものである。
正直私はここらへんがわからない。「置き換わっているのではなく、象徴と見る」というが、象徴って、普通置き換わっているのではないか?昔隠喩と換喩の違いについて聞いたことがある。メタファーとは例えば「一杯やろう」という時の、盃=酒、という感じ。換喩は王冠が王様を意味するように、そのものの一部を象徴する、と学んだ。どちらも広い意味での置換えだ。置き換えていない象徴ってナンだろう。よくわからないや。結局翻訳や、置き換えの可能性を考えない夢の解釈は不可能だと思うのだが。やはり結局ここでもやはり実証主義 positivism 的な発想が問題なのではないか? つまりフォサーギ先生は夢には意味が有ることを前提としているのだ。一つの正解を前提とする態度。それが実証主義である。
 先生はこんなふうにも書いていらっしゃる。
4.一度夢のシナリオが同定されたら、分析の課題は患者の覚醒時の生活の中で、そのようなテーマがいつ、以下にして見られるかを同定することへと移る。
・・・・・・。やっぱりね。同定を目指すわけだ。でもそれが難しいんだよね。さらに言う。「もしそれが分析家に関係したことであれば、その夢は転移を表しているということになるという。」しかしフォサーギ先生は、「なんでも転移」という方ではないらしい。
1.           夢の内容がなんでも転移、というわけではない。ただし夢の中に分析家が出てきたり、患者が夢の内容をすぐさま分析家に結びつける場合を除いて、である。
って、そりゃそうだろう。もうノーコメント。
ということで論文の最後に、ある夢の例が出てくる。フォサーギ先生が報告して、そのあとクライン派とコフート派のふたりの有名な先生がコメントをしたそうだ。これを少し書いておこう。
かつて先生にはジェシカという患者さんがいたという。長年うつ状態に苦しんでいたが、分析のプロセスの中で徐々に回復していったという。ある時先生には心配事があり、顔色が悪かったが、ジェシカは目ざとくそれを発見して、「死にかけた老人」という印象を持ったという。(セッション中の自由連想でそんなことを言ったのかしらん。論文ではぼかしてある。患者の立場としてはなかなか言える内容ではないが。)そのイメージはジェシカの父親を表していたらしい。その父親はジェシカが子供の頃長くうつ状態を病んでいたという。
そしてジェシカはその夜見た夢を報告した。
私が霊安室に呼ばれると、おじの遺体が横たわっていた。しかしその死体は痛みにのたうち回っていた。彼の横には私のふたりの姉が膝まづいていた。彼らも固まって死んだようだった。私ははじめおじの痛みをとってあげようと、声をかけたが、何も効果が無かった。私は絶望的な気持ちになった。私はそこを去らなくてはならなかった。
ジェシカは、この夢をフォサーギ先生の不安そうな顔と直ちに結びつけ、不安そうな人を見るのは耐えられない、と語った。という。
この報告を読んだクライン派の分析家は、「この夢は患者の持つ攻撃性を意味している」と解釈したという。ジェシカがこの男を苦しめているのであり、彼女はそれに直面しているという。これについてフォサーギ先生は、「夢の中で患者がこの男性を苦しめているという手がかりは一切得られない」と論駁する。

次にコフート派の先生の解釈。「夢は患者のうつ状態を表している」と言ったという。しかしフォサーギ先生にしてみれば、「夢の中に患者が自分のうつを投影しているという証拠は何もない」というわけで、とこれも退ける。
 さてフォサーギ先生自身の解釈。「この夢は、抑うつ状態にある他者に対するstruggle である。(struggle は訳しにくいが、葛藤、苦しみ、というニュアンスだ。)ポイントは、彼女が「私はそこを去らなければならなかった」と言っているところだそうだ。それは彼女が姉たちのように父親のもとにとどまって固まって死んだようになっていたのではなく、父親のもとを去る必要があったことを意味していたのである、という。

2014年4月25日金曜日

フォサーギ先生の夢理論(9)

そのうち発売になる本のタイトルとカバーを独断で考えてみた。どうだろう? ⇒
ちなみに「自己愛トラウマ」という言葉は誰も使っておらず、検索すると、このブログ自身が出てくる。



 夢について患者本人に考えを聞く、という方針は、私たちにとってはある意味で当たり前の話でもある。私も同じようにする。ただフロイトの時代はこれが当たり前でなかった時代なのかもしれない。これは例えば患者がひとしきり自由連想を語ったあとで「ではいまの自由連想についての自由連想をしてみてください。」と指示するようなものだ。自由連想に患者の無意識が現れ、それを高みに立つ分析家が特権的に見て取ることができたとしたら、それを解釈として伝えることが治療であるということになる。「自由連想についての自由連想」とは考えてみれば「自由連想」そのものにほかならないのであり、患者がその無意識内容に気がつかない限りは一種の堂々巡り、ということになるだろう。そしてこの理論を当てはめるならば、夢について自由連想をしてください、という問いについてもあまり意味がなくなってくることになる。「(夢の中に出てきた)猫は私のことだと思います」という連想も、それ自身が夢の真の意味、例えば「猫は母親である」を防衛した結果であるとしたら、連想を聞く意味は半減するだろう。聴けば聴くほどタマネギの皮が厚くなっていく、という理屈だ。
その意味では「夢の内容についてどう思いますか?」という問いは、実はフロイト的な考え方、すなわち夢は防衛であったり、健在内容と潜在内容に分かれていたりする、という考え方から遠ざかった立場から出てくる、と言っていいのだろう。
 2.患者が夢を夢の中でどのように体験したかを聞く

 これをすることは、夢の内容を覚醒後に再構成するという傾向に対抗するという。ただし夢の中での体験は、不思議なほどにリアリティを持ち、受身的に起きることを受け入れるという姿勢であることに気がつく。「なんであんなことを不思議とも思わずにしたのだろう?」という思考は覚醒した後に出てくるものである。夢の中では驚くべきことが起き、しかしそれを淡々と批判なく受け入れるという傾向にある。後にも出てくるが、私はホブソンの活性化-合成理論というのが好きだが、夢は神経伝達物質の中でもアセチルコリンが優勢で、それと夢の諸性質(非・批判的な点も含めて)が関係していると理解している。とすると淡々と受け止めるのは夢の持つ生物学的な性質ということにもなるのだろう。

2014年4月24日木曜日

フォサーギ先生の夢理論(8)

最後にフォサーギ先生は夢を扱う6つのガイドラインについて書いてある。ありがたや。
1.             夢が統合的で新生的synthetic な性質である以上、治療者の仕事は夢の内容についての患者の連想を聞くことで、その内容の意味を明らかにすることだ。

これってどうかな。私からの早速コメントだ。これって結局「夢に出てきたこの猫は、~を意味している」というふうに謎解きをしていくことになるのだろう。でもそれは普通の夢の分析とあまり変わらない。現代の精神療法において、夢が報告された場合には早速それの解釈に入るという治療者はあまりいないのではないか。まずはそれについての患者の連想を重視するだろう。すると患者が「この猫は、私の分身のような気がします」というか「肌触りは私の母親を思い出させます」かもしれない。あるいは「まさしくうちのタマです!」かもしれない。(ところでここで例に猫を出したのは、かの河合隼雄先生が「猫は人それぞれ何を意味するのか違う」とかいうことをおっしゃったからであり、ワンちゃんであっても構わない。)すると患者の連想を手がかりに夢の意味を解き明かそうという姿勢はフロイトの「夢判断」とあまり変わらない。私はそれが行けないというのではないが、自分の夢の内容についての患者さんの連想さえも、蓋然的なものであるという点を一言指摘しておきたいのだ。
 「私の分身です。」という患者さんの連想だって、既に夢を見ている自分の状態とは推移した自分が持つ連想であり、それが「正解」であるという保証は全然ない。ただしもちろん「私の分身です」という連想は尊重すべきひとつの可能な解釈の方法である。
 いや、今の言い方も正しくない。夢は本来解釈不可能かもしれない。それが私の偽らざる立場である。様々な分子のカオスが高温で攪拌されてアミノ酸Aが生成された時、そこにどれほどの必然性があったかはわからない。別の状況ではBCが生成されたかもしれないのだ。重要なのは、そのAB、ないしはCがどのような経過をたどって生命の誕生に結びつくか(否か)ということなのだ。「猫は自分の分身です」といった患者さんは、夢の謎解きや解釈をしたということでは必ずしもなく、新たな連想をそこで生み出した、ということそのものに意味があるのである。私だったら治療者に問われてかなり適当に「私の分身かな」と思いつきを言ってしまうかもしれない。そしてそれを字義通りに取られても・・・と思うかもしれないのだ。

2014年4月23日水曜日

フォサーギ先生の夢理論(7)

 ウン、面白くなってきたぞ。彼は夢の主要な理論は、結局フロイトの潜在的、顕在的内容という考えを踏襲していないという。フロムの理論も夢は象徴的ではあってもdisguise 変装ではないという。フレンチとフロム(問題解決の努力)も、フェアバーン(対象関係論的理解)も、コフート(自己調節)もエリクソン(個別的な自我モード)も、いずれもそうである。そこで潜在的、顕在的、という言い方はやめて、すんなりと「夢内容dream content」と呼ぶことをフォサーギ先生は提案する。
 こうして夢は心をより直接的に表しているという彼の主張が展開されるのであるが、だからと言って夢の内容の持つ意味は明らかである、と入っていないとくぎを刺す。夢は分かりにくいのだ。そしてその理由を3つ上げている。1.うまく思い出せないから。2.夢のプロセス自体の不明確さ、そして比喩的な性質であるという。ここら辺、私は違う考えを持つ。夢がわからないのは、そこにランダム性が備わっているからだ。一部は整合的で、別の部分は非整合的、でたらめ。小石を入れた箱をゆすっていると、ところどころに小石が組み合わさった石垣のような構造が出来てもおかしくない。でも別の部分はバラバラだろう。それと同じなのだ。
 どこかでそろばん作りのビデオを見たことがある。立体菱形のそろばんの玉(というのかな?)を箱にバラバラに入れて、あとは串(そろばんの玉を貫く細い棒)が並んでいるそろばんの骨組みを差し込んで中を泳がせるだけ。串の先から順番に玉が入っていく。これが実にうまくいくのだ。しばらくするとそれぞれの串にたまが詰まっていく。玉がバラバラに入っている箱のカオスから構造が出来上がっていくのだ。人間の夢の構造も似ているのかもしれない。

2014年4月22日火曜日

フォサーギ先生の夢理論(6)


 「維持し修復する」ことに関して、フォサーギ先生はフロイトの「イルマの注射」の夢を例に挙げている。この夢では、フロイトは昼間にイルマに対する治療について同僚からいろいろ批判をされたが、夢の中ではそれらの批判を逆に批判するという内容であるという。これをself-righting というような英語で説明しているな。self-righting boat というと「セルフライティング[転覆防止]構造のボート」というそうだ。日本語にもなっているのだ。まあそれはともかく、夢にはそのような働きがあるという。起き上がりこぼしのようなものだ。
でもそれだったら、たとえば悪夢とか、トラウマのフラッシュバックに近い夢はどうなるんだろうか?などと疑問を持ちつつ読んでいると、出てきた。「心理的な構造の修復は、しかし必ずしも健康への方向性を持たない」そうだ。あまり健康ではない思考パターン、たとえば「自分が成功することは人を不快にする」といった思考を再修復することなどもある。
フォサーギ先生は、レムが生物にとって必要であることを強調する。典型的には、レムを抑えるとリバウンドが起きる。あたかも脳が一定の量を必要としていて、それが損なわれると急いで補おうとする。ある研究によれば、レムを抑えると、日中のファンタジー傾向が高まるという。このようにレムに代表される思考はもしかしたら覚醒時にも引き続いて起きているかもしれないというのである。
 レム睡眠を生体は必要としているようだ。リバウンドまで起こすのだから。だからそれは「維持修復」という重要な任務を持っている、というロジックはわかる。しかしそれならどうしてそれは「覚醒時の思考と同じなのだ」っていうんだろう?むしろ「覚醒時に起きた様々な出来事により混乱した思考をいったん整理しなおすという特別な役割をレムが担っているんだ」と言ってくれた方がわかりやすいのに、などとつい考えてしまう。
さて次にフォサーギさんは、結構勇気のあることをいう。フロイトの理論である、夢は防衛的な加工を行い、そこに潜在的、顕在的夢内容が生じるという議論は、もはや理屈に合わないという。もはや「この夢は~を象徴しているのだ」という話は時代遅れであり、意味がないというのだ。これを言ってもらうと…・正直私は助かる。



2014年4月21日月曜日

フォサーギ先生の夢理論(5)

この現象について、コフート理論に親和性のあるフォサーギ先生は、彼の理論を引いて説明する。典型的には、分析家への不信は前景にあるものだ。しかし背景にあるのは治療者に対する理想化なのである。理想化された、あるいは幼いころに追及していた両親像を治療者が備えているからこそ、治療は継続されているのだという。ところでフォサーギさんの話を聞いたある分析家は、夢の中で自分の中の羨望への自覚と葛藤を起こしているのではないか?」と問うたという。雰囲気からはとてもクライニアンっぽいわけだが、これについてフォサーギ先生は言う。「羨望との葛藤、というよりは、夢自身はとても心地よく、自分の理想化された自己対象との体験に対応したものであった」。そしてそこから彼の理論が続く。「夢とは心の構造を維持し、修正するのである。起きているときの心の働きと同様。」やはりこの臨床例を読んだ後も、フォサーギ先生の主張には少し疑問が残る。まず彼を理想化したような夢の内容は、「羨望との葛藤ではない」としても、それが「夢とは心の構造を維持し、修正するのである。」ことの傍証になるのか。だって夢の内容が「羨望との葛藤」となることもある場合だってあるし、そうなると夢が「維持し修正する」ことにはつながらないということになろう。
 ましてや起きているときと同様、というのもわからない。起きているときの思考は場合によっては苦痛で葛藤を伴うこともある。それを「維持し修正する」と言ってしまうところで、彼の主張のcredibility が損なわれる気がする。せっかく「維持し、修正する」のが夢の特徴なのか、と納得しかかったときに、「起きているときの思考と同様」と言われることで彼の主張の真意が分からなくなってしまう。
私の考える夢とは、やはりこのような一般化ができないような不思議な現象の混淆である。そこでは様々な思考内容の離合集散が起きている。時には構成的で、時には破壊し、作り直す。そしてそれはおそらく日中の体験にある程度関係しているのだろう。日中の現実との体験で生じた様々な体験がパズルのピースのように組み合わさっていく。部分的に、時には整合性を伴わず。箱の中にさまざまな形をした小石を詰め込んだとする。それを細かく揺すってしばらくたつと、小石の量が小さくなるだろう。凸凹がうまく組み合っていくつかのまとまりを作ったりするだろう。私にとってはこの比喩が夢の思考のニュアンスを伝えている。分子のカオスの中で様々な分子同士が出会って、ある者はアミノ酸を偶然構成していくというオパーリンの主張のように。


2014年4月20日日曜日

フォサーギ先生の夢理論(4)

 これからフォサーギ先生はそれぞれの項目についてより詳しく解説する。納得のいく解説をしていただけるのか楽しみだ。
彼は覚醒時も夢も、心理的な構造を発展させる、という。この表現はあいまいだが、こんな例を挙げている。カテゴリーや期待を確立する、など(establishment of categories and expectancies)なんかよく分からないなあ。この例。もうちょっと直感的にわかりやすい例はないのだろうか?それと情緒的な体験も双方に共通している。これはわかりやすいよね。そしてここは重要だが、夢は外傷的、ないしは生気的vitalizing な体験までも含みこむ。それとREMは学習にも関係している。動物でも人間でも、学習の体験が多いと、REMは増えるという。なるほどね。REMはもう子宮内の赤ちゃんからみられるという。つまり非言語的で象徴的な思考は生後早期から非常に活発であるということがわかるであろう。赤ちゃんは50%がレム、大人は25パー、老人は15パーだという。トホホ、悲しいな。俺のことだ。ともかくある学者によると、レムは、神経ネットワークの形成と関係があるのではないかというのだ。
さてこのことと関係して、フォサーギさんは、レムは新しく生まれてくる思考deevelopmet of newly emergent psychic organizationに関係しているという。ウン、ここら辺からフォサーギさんらしくなってきたぞ。夢には新奇性があるが、それはこの夢の創発的なところだという。

この次の例も比較的わかりやすい。フォサーギ先生のところにやってきた患者さんは、彼に対する疑い深さを時々口に出していた。彼はあまり信用できないというのだ。ところがこの患者さんの夢の中で、彼がフォサーギ先生のうちの地下室にいて、そこに入り込んだ男性に「あなたは幸運ですね。フォサーギ先生はとてもいい先生ですよ」と告げているというのだ。

2014年4月19日土曜日

フォサーギ先生の夢理論(3)

ということで読み進めていく。
起きている間は私たちは明晰的 explicitly、ないしは被明晰的 implicitly に思考を進行させる。前者は意識的に、後者は非意識的nonconsciousに、とある。このnonconscious って、無意識unconsciousの間違いではないかと思うが、この表現は実は一部の理論家には使われているということであり、フロイトの力動的、つまり葛藤や抑圧などが働く無意識の概念と区別するという意味があるという。うん、私もこの区別はいいと思う。「非意識」という訳語も問題ないであろう。フォサーギ先生は夢においてもこの二つのプロセスが働くという。
もう一つ彼が区別しているのが、次の二つのモードだ。一つは感覚的イメージ的、もう一つは言語的なモードであるという。これも睡眠、覚醒時の両方にかかわってくる。(なんか右脳的、左脳的、とでもいいたそうな。でもまだそこまではフォサーギ先生は言っていない。)前者は情緒的な内容を含む。ここでフォサーギ先生が、「情報を構成し、情緒を安定させる」と二つの要素を常に夢の機能として挙げている理由がわかる。一つは言語的、もう一つはイメージ的なう要素を取り上げているからだ。ここまでは特に問題ないぞ。さて次に彼が言っているのは、覚醒時と睡眠時の思考の共通点を挙げているのだが、ここらあたりから問題が出てくる。
1.両方においてデータを記憶に向かってプロセスし、構成し、統合し、概して適応的な役割をする。
2.            両方ともその内容は単純なものから複雑なものまで幅がある。
3.            両方とも感情を調節する。
4.            REMは睡眠時も、覚醒時にも起きる(後者は白日夢など)
どうだろうか?ウーン。例えば1について。そりゃそうだが、例えば夢の記憶の仕方がこれだけ脆いことは、むしろ両者の違いは何か、ということである。2は当たり前の話。3はどうだろうか?これも当たり前と言えば当たり前。しかし覚醒時に感情の調節が常に起きているかは疑問だろう。覚醒時に感情が揺さぶられる思考もいくらでもある。それを一言で「感情を調節している」と言い切るとしたら、同じくらいの蓋然性で夢を語っていることになりはしないか? 私はむしろ3を言い換えて、夢にも覚醒時の思考にも、感情を乱す要素も、安定性を回復させる要素も二つともあるよ、というのがまだいいような気がする。


2014年4月18日金曜日

フォサーギ先生の夢理論(2)


本格的に読むのは、The Organizing Function of dreaming (International Forum off Psychoanalysis, 2007, 16:213-221) という論文だ。日本語に訳すると、「夢を見ることの構成機能」となるな。
抄録では、 夢は情報の組織化と、情動の調節である、と言い切る。そしてそれは脳科学、認知科学、精神分析その他の知見を総合したときにそうなると言っとるんや。脳科学と精神分析を統合した結果いえることは、夢とは心の内容を整理し、気持ちを安定させる大事な意味があるちゅうわけや。絵?それってフロイトの言ったことと違うって?確かに。フロイトは夢は願望充足であり、欲動の発散であるといった。それとはずいぶん違うことになる。しかし後者がまったくないとも言っていないのだ。しかしそれには限定されない大事な機能がある、というわけや。デモなんか漠然としてよーわからんから、少し中身を読んでみよか。 まず先生は自分のモデルを組織化モデルだという。それは上に述べたとおりだが、その大事な役割は、情報処理なのだという。これは夢は記憶を形成するために重要な役割を果たすという最近の大脳生理学的な考え方にも通じるのであろう。そしてフロイト以降夢の中心的な理論の変遷について触れている。フロイトについてはええやろう。夢は願望充足であり、欲動の発散であるという考えだ。ユングはどうか?「ユングは意識的な心を訂正したり、代償したりする」の一行で終わらせている。これはユング派の人にとってはどうなんだろう。次にエーリッヒ・フロム、グリーンバーグ、パールマンたちは、問題解決的な意義を説いたという。フーン。フェアバーンはどうか。夢を見る人がはまり込んでいる精神内界的な状態を表すとともに、それを彫刻するための試みでもあるという。コフートはどうか。自己が断片化の危機にあるときに、それを修復する意味があるという。そして数人の脳生理学者たち(書くのが大変だ。Uliman, Breger,Hartmen, Kramer, Palombo, Jonathan Winsonら)の見解葉、夢は情報の統合であり、適応的な意味を持つ。ストロローとアトウッドは、心理的な構造の保護者である、という。

うーん、わかったようなわからないような。でもひとついえることは、夢は適応的と考える以外にないということだ。だっておよそすべての生物は眠るのだから。いや、待てよ、それと夢とは違うか。睡眠の一部がREM というわけだが、これほど生物の広範にわたってこの時期が存在するということは、何らかの適応的な意義があると考えるしかない。たとえば多くの生物が耳や鼻を備えているから、それらはきっと適応的だ、と考えるように。いや、単純化しすぎか。

2014年4月17日木曜日

フォサーギ先生の夢理論(1)

 オトナの事情はいつ降って湧いてくるかわからない。どういう事情かわからないが、ジェームズ・フォサージJames Fosshage 先生というアメリカの精神分析家の夢理論について勉強しなくてはならなくなった。しばらくは解離の話をすっとばして、こちらの方を扱いたい。

ところで私はアメリカからくる夢を専門とする精神分析家、と聞いて最初は敬遠したかった。私は夢が苦手だ。というよりは精神分析的な夢理論が苦手だ。特に夢の象徴機能、となるともう「本当かいな?」になる。これは私がシャイであることと関係している。誠しやかな、いかにも意味有りげな解釈は、なんとなく照れくさくなってしまい、「ナーンテネ」となってしまうのである。というわけで、フォサーギ先生がそういう議論をするのなら困ったな、と思っていたのだ。しかし彼が書いたものを、私のお友達でもある冨樫公一先生にお借りして読んでみると、かなり進んだ理論を取り入れていらっしゃることがわかったのである。ちなみに彼の著作は日本語にも訳されているが、現在は絶版となっている。(夢の解釈と臨床 (1983)ジェイムズ・L.フォッシジ、 クレメンス・A.レーヴ、 遠藤 みどり (翻訳)ちなみに、「フォッシジ」とはなんちゅう読み方をしとるんや。

2014年4月16日水曜日

解離の治療論 (32)欧米における解離の治療論(6)


 さて肝心の治療論に近づいているが、こんな興味深い記載もある。

「医原性のDIDについてはかねてから活発な議論があった。しかし専門家の間ではこのことはつよく否定されている。」
DIDの症状の全体にわたって、医原性に作られたということを示すような学術論文は一つも出されていない。」
うん、心強い記載である。しかし「ただし・・・・・」と続く。
「他のいかなる精神科的な症状と同様、DIDの提示は、虚偽性障害や詐病である可能性がある。DIDをまねるような強い動因が働く場合には注意しなくてはならない。たとえば起訴されている場合、障害者年金や補償金などが絡んでいる場合。
ここに書かれているのは事実かと思うが、やはりDIDは詐病との関連が指摘されることが多いのはなぜなのか? 例えば統合失調症についての鑑別診断に、詐病や虚偽性障害が言及されるだろうか? おそらくないだろう。ところが解離性障害となるとこれが出てくる。では実際に多いのだろうか? 私の感覚では決して多くない。というより私の経験では、DIDが鑑別診断上問題となった数少ないケースは、概ね統合失調症の方である。もちろん誰かが演技をしてDIDを装うことはできるであろう。でも同様に統合失調症を、PTSDを、パニック障害を装うこともできる。それにプロフィールの複雑さを考えるとしたら、DIDを真似するより、統合失調症やPTSDやパニック障害を真似する方が容易である気がする。
 DIDを装うとした場合、ではその理由、ないしは利得はなんだろうか?これもあまり大したことはないだろう。障害者年金だろうか? 私は患者さんの障害者年金の申請書を書く場合、「解離性障害」だけでは説得力がないことを知っている。なんといっても統合失調症、うつ病などが障害の重みを伝える診断名である。だからそのためにDIDを装う根拠はほとんどない。
 では犯した犯罪の責任を逃れるためか?しかし裁判で「あの人を害したのは、私の中の別の人格です」という主張が通ることは普通はないのである。裁判官に一笑に付されてしまう可能性が高い。とするとDIDが詐病と関連付けられる外的な理由は事実上ないことになる。というよりも誰が、これほど誤解と偏見の伴うDIDを好き好んで装うのだろうか?
ということで結論。

解離性障害の性質として、詐病や虚偽性障害を疑われやすいという特徴があると考えるしかないであろう。もうその種の扱いを受けることがDIDの性質そのものなのだ。

2014年4月15日火曜日

解離の治療論 (31)欧米における解離の治療論(5)

 同一化は、いわばコピーの能力であるが、ファンタジーはそこに自分の側からの加工が加わる。少年が忍者タートルと同一化して,その一員のように振舞う為には、そこに新たなストーリーを作り上げて、その中で遊ぶ必要がある。そう、ここでミラーニューロンに支えられたコピー能力と、ファンタジー能力を二つ分けておいたのを記憶しておいていただきたい(誰も記憶しないって!)
ということで再びガイドラインに戻ろう。192ページのepidemiology(疫学) についての項目。精神科の患者のうち1~5%がDIDの診断基準を満たすという。ということは実際の人口ではこれよりかなり少ないということになるか。私はここら辺に異論はない。そしてそれらの患者の多くがDIDとは診断されていず、その原因としては、臨床家の教育が行き届いていないから、とある。大部分の臨床家は、DIDが稀で、派手でドラマティックな臨床症状を呈すると教育されているという。しかし実際のDIDの患者は、明らかに異なる人格状態を示す代わりに、解離とPTSD症状の混合という形を取り、それらは見かけ上はトラウマに関連しない症状、たとえば抑うつやパニックや物質乱用や身体症状や食行動異常などにはまり込んでいるという。そして診断はこれらのより見かけ上の診断を付けられ、それらの診断に基づいた治療がなされた際の予後はよくないという。ここら辺は事情は日本とほとんど変らないと言うことか・・・。ただし一つだけ異論あり。DIDの人で臨床上問題となる人はしばしば鬱を併発しているが、鬱の治療って大事だと思うけれど。
 さてNOS(他に分類できないもの)についてはどうか。臨床現場で出会う解離性の患者の多くはNOSの診断を受ける。ここには実際はDIDだが診断が下っていない場合と、DIDに十分になりきっていないタイプとが属するという。
 後者に関しては、複合的な解離症状を伴っていて、内的な断片化がある程度生じていたり、頻繁でない健忘が生じているものの、もうちょっとでDIDにいたっていないという場合であるという。ここら辺も特に異論はない。ただし私の感想としては、DIDの人は、人格が精緻化されるという方向にまで普通は行き着いているようである。人格の精緻化のプロセスは、いったん始まったらあとは半ば自動的に起きるプロセスといえるのではないか?
私の印象では人格の精緻化が、かなり急速に進むタイプと、一定以上は進まないタイプがあるようである。それは人格に特異的というよりは、患者さんに特異的である。例の「顔に目鼻」の比喩を用いるならば、典型的なDIDの患者さんの中で目鼻のない状態なのは黒幕さんだけで、あとはたいていかなりはっきりとした目鼻がついている。ところが解離性遁走の場合には、DIDに「併発」していない限りは目鼻がはっきりしない方のほうが多いようである。

さて施すべき心理テストはたくさん書いてある。以下頭文字のみ。SCID-D, DDIS, MID, DES, DIS-Q, SDQ-20.・・・本当に彼らはたくさん作るな。欧米人は肉食だから。私はちなみにほとんどこれらを使ったことがない。患者さんの負担も考えないとね。

2014年4月14日月曜日

解離の治療論 (30)欧米における解離の治療論(4)

 B状態にある人格に目鼻が書き込まれ、名前が与えられるというのはつまり、DIDで比較的典型的に見られるような、プロフィールのはっきりした交代人格状態にまで成長しうるということを比喩的に表現している。ではどうして子どもはB状態をそこまで精緻化できるのか?私には一つの仮説がある。それは子供の同一化の能力だ。子どもはアニメのキャラクターに「なりきる」ことが出来る。アメリカで「忍者タートル」という番組をやっていたが、幼かった息子は番組を見ながら本気になって登場人物と同じように鉢巻をして敵に向かってかまえる仕草をしていたのを思い出す(息子よ、また例に出してすまん)。
 この種の「なりきり」は成人の同様のそれよりワンランク高度なものである。いや、ワンランク、なんてものではない。別格なのである。
 ここで思い出していただきたいのが、言語の習得のプロセスである。子どもが母国語を話し出す際は間違いなく模倣のプロセスを含むが、彼らの発音やイントネーションは完ぺきなそれになっていく。これは外国語の習得と明らかに違う。中学生になり、英語の教師の口真似をして人工的に学んでいく際は、真似をしているだけなのだ。私は自分が英語を話す時は常にfalse selfであることを自覚せざるを得ないが、どこかに「にせもの」感があるのは英語の習得が「なりきり」の段階を経ていないからなのだ。
 どうして子どもは自然に「なりきる」ことが出来るのか。おそらくミラーニューロンの活動の程度が極めて高いからであろう。子どもにとって最も重要なプロセスの一つは、大人の模倣をし、意思伝達を行う言語を獲得することである。その為のミラーニューロンの活性の程度は並外れているのであろう。そしてそれは思春期の到来とともに低下して行く。子どもは日本人になったうえに、外国人になる必要はあまりないわけだ。アイデンティティは取りあえず一つあればいい。それ以上あるとかえって混乱するだろう。その為にも周囲に同一化してなりきる能力はある程度抑制されていかなくてはならない。
 B状態が人格として成長する能力にも、周囲の何らかの表象を取り込み、それを自分のものとして精緻化して行くというプロセスにはミラーニューロンの活動が欠かせないのであろう。例えば母親にとって「いい子」の人格を形成するためには母親が理想の子どもとして思い描いているであろうイメージを取りこみ、同一化する能力が必要なわけだ。
 昨日のブログでは、子供の脳のIPS細胞的な性質、という言い方をしたが、IPSPとは pluripotent (数多くの可能性を持つ)であり、周囲に合わせてどのような形をもとれる、という意味だ。

ところでこう考えて行くと、同一化、なりきりの力と同様に重要になってくるのが、子どものファンタジーを抱く能力である。

2014年4月13日日曜日

解離の治療論 (29)欧米における解離の治療論(3)

ところでにこの論文では早速DIDの成因の説として「構造的解離理論」という単語が登場してくるが、これはある意味では当然のことと言えるだろう。この理論の提唱者の一人であるVan der Hart先生はこの学会の重鎮だからである。
ところでこの論文の冒頭では、もう一つ少し気になることが書いてある。「DIDはもともと統合されている心に生じた問題ではない。正常な心の統合がうまく行かなかったことが原因だ。そしてそれは圧倒的な体験や、養育者との関係の障害(例えばニグレクトや、問いかけに応えてくれないなど)が幼少時の臨界期に生じたことによる。その結果として心にサブシステムが形成されたのだ。」
この部分について去年の夏書いたときは、かなりはっきり意をと泣いたのであるが、今はあまり反論する気になれない。ただ問題は「心が統合されていないうちにトラウマが起きることで、解離が生じる」、という部分が誤解を招くということだ。
 子供は小さいながらに統合された心を形成しつつある。ところが圧倒的な出来事が起きて意識が飛ぶ。その間心のもう一つの部分が心を代行するということが起きるのだろう。それが解離の始まりなのだ。問題はこのもう一つの部分の心が独自に人格を持つという現象が幼少時にしか典型的に起きないということだろう。一つの可能性は幼少時には心が成熟していないから、ということで、それがこの論文の趣旨である。しかしそうではなく、幼少時には特殊な能力が備わっているから、と考えるべきだろうと私は思う。つまり人間の脳のIPS細胞的な性質なのである。
 もうちょっと説明しよう。圧倒的な出来事が起きた時、大人でも朦朧としてしまい、トランス状態になることがある。いわゆるperi-traumatic dissociation (トラウマ周辺の解離)、という状態だ。それを仮にB状態としよう。B状態はやがてフラッシュバックのように襲ってくることになるだろう。構造的解離理論がこれをEP(情緒的な人格部分)と呼んでいるのは私も知っているし、それはうまい考えだと思う。つまりフラッシュバックした時は、体験そのものがよみがえっているというよりは、人格状態が丸ごとよみがえってくるんだよ、と言う含みだ。PTSDを解離の範疇に飲み込むような概念である。
問題はB状態がどこまで精緻化されるかということだ。精緻化sophistication とは要するに、B状態が「顔なしさん」ではなく、目鼻が書き込まれ、名前まで備わっている状態になるということだ。


2014年4月12日土曜日

続・解離の治療論(28)解離を臨床でいかに扱うか(2)


今回の「オトナの事情」は、かなりかしこまった筋からの「注文」なので(ナンの話だ?)それなりの文献もそろえなくてはならないが、私は欧米の解離の治療論を読んでもいつもよくわからない。そこで少し無理をしてこのブログに合わせて読んだものが去年の夏にあった。それを書き直しつつここに再び掲載したい。
解離の研究に関しては、解離の国際学会がそのオピニオンリーダー的な役割を担っている。それはInternational Society for The study of Trauma and Dissociation “ISSTD” 「国際解離研究ソサエティ」と呼ばれるものである。そこが発刊している Guidelines for Treating Dissociative Identity Disorder in Adults, third revision (成人DIDの治療ガイドライン、第3版)という論文がある。これはすごく由緒正しい論文だ。つまりこの国際的な学会がガイドラインを作ることを決定して、内部でエキスパートを選んで部会を立ち上げ、書き上げたガイドラインということだ。つまりこれ以上のお墨付きはないことになる。それにこれが書かれたのは2010年と、かなり最近のほうである。ちなみにこの論文は、ISSTDの学会誌であるthe Journal of Trauma and Dissociation のサイトで無料でダウンロードできる。 http://www.isst-d.org/downloads/2011AdultTreatmentGuidelinesSummary.pdf
この論文では初めにDIDの成因についての理論的なことが書かれている。そこには「例外を除いて幼少時のトラウマが原因である」と書いてある。解離は幼少時のトラウマに対する防衛であり、それも闘争・逃避反応のような類のものであり、精神力動的な概念である防衛とは異なる、と断り書きがしてある。

さてここですでに引っかかってしまってはいけないのであろうが、やはり「ン?」となる。幼少時のトラウマ? おそらくそれは大部分のケースにおいて正しいのであろう。でもこれを一律にこう言い切っていいのだろうか?やはりトラウマというよりはストレス、私が昔dissociogenic stress (解離原性)と呼んだものを考える必要があるのではないのだろうか?

ちなみにこの解離原性ストレスというのはある種のトートロジーである。「解離を起こしやすいようなストレス」ということだからだ。でも幼少時のトラウマと言い切ってしまうよりはいい気がする。

2014年4月11日金曜日

続・解離の治療論(28)解離を臨床でいかに扱うか(1)


また「オトナの事情」が舞い込んだ。ある少し教科書的な文章を9月までに書かないと人に迷惑がかかる、というものである。今書いていることに関連するので引き受けた。題して「解離を臨床でいかに扱うか?」何かあまり変わらないなあ。というか「解離の治療論」と結局同じじゃないかー!
ところでいくつかの基礎的な文章はもうすでに用意できている。読者は絶対覚えていないだろうが、去年の夏ごろに「解離性障害の初回面接」というのを書いた。あれはあれで「オトナの事情だったわけだが、4月に発刊になるある専門誌に掲載されることになっている。あれもこのブログでお世話になって掛けたものだ。最終盤をお披露目していなかったので、ここで一応紹介する。

<臨●精●●学 2014年4月号 掲載予定>

 解離性(転換性)障害の初回面接 の草稿

解離性障害の初回面接は、患者が「解離性障害(の疑い)」として紹介されてきた場合と、そうでない場合、例えば統合失調症や境界性パーソナリティ障害の診断のもとに紹介されて来た場合とでは多少なりとも事情が異なる。本稿は「解離性障害の可能性があると思われる患者について、その鑑別診断を考慮しつつ初回の面接を行う」という設定を考えて論じることにする。

 最初に「大変でしたね」という気持ちを伝える
解離性障害の初回面接では、患者はしばしば面接者を警戒し、自分の訴えをどこまで理解してもらえるかについて疑いの念を持っている可能性がある。患者にはまず丁寧にあいさつをし、初診に訪れるに至ったことへの敬意を表したい。多くの場合、患者はすでに別の精神科医と出会い、解離性障害とは異なる診断を受けている。患者が持参する「お薬手帳」に貼られた薬のシールがそれをある程度示唆するであろう。彼らの多くは過去に統合失調症やその他の精神病を疑った精神科医から、抗精神病薬(リスパダール、ジプレキサなど)の処方を受けている。またそのような経験を持たなかった患者も、その症状により周囲から様々な誤解や偏見の対象となっていた可能性を面接者は念頭に置かなくてはならない。
 患者が誤解を受けやすい理由は、解離性(転換性)の症状の性質そのものにある。心の内部に人格が複数存在すること、一定期間の記憶を失い、その間別の人格としての体験が成立すること、体の諸機能が突然失われて、また回復することなどの症状は、私たちが常識的な範囲で理解する心身のあり方とは大きく異なる。そのためにあたかも本人が意図的にそれらの症状を作り出したりコントロールしたりしているのではないか、という誤解を生みやすい。そして患者はそのような体験を何度も繰り返す過程で、医療関係者にすら症状を隠すようになり、それが更なる誤解や誤診を招くきっかけとなるのだ。
 解離を疑われる患者にも、それ以外の患者にも、筆者は初診の面接においてはまず「主訴」にあたる部分を聞くことにしている。もちろん本人の年齢、身分(学生か、会社勤務か、など)、居住状況(独居か、既婚か、実家の家族と一緒か、など)、などの基本的な情報をまず聞いておくことが賢明かもしれないが、その次に訊ねることは、この「主訴」である。つまり本人が現在一番困っていること、不都合に感じていることに焦点づけて面接を開始するわけであるが、もちろん次のような反応もあるだろう。「私はとくに困っていることはありません。お母さんから言われてきました。」その場合には「ご本人の訴えは特になし」ということになるが、その際に患者に「お母さんはあなたのどのようなことをご心配なさっていると思うのですか?」という質問を向けることはさまざまな意味で妥当なものといえるだろう。
 筆者の経験では、解離性障害の「主訴」には、「物事を覚えられない」「過去の記憶が抜け落ちている」などの記憶に関するものが多い。それに比べて「人の声が聞こえてくる」「頭の中にいろいろな人のイメージが浮かぶ」などの幻覚に関する訴えは、少なくとも主訴としてはあまり聞くことがない。それは前者は患者が実際の生活で困っていることであるのに対し、後者は本人がかなり昔から自然に体験しているために、それを不自然と思っていない場合が多いからであろう。
現病歴を聞く
解離性障害の現病歴は、社会生活歴との境目があまり明確でないことが多い。通常は現病歴は発症の時期あるいはその前駆期にさかのぼって記載されるが、特にDID(解離性同一性障害)の場合は、物心つく前にその兆候が見られている可能性が高い。たとえ明確な人格の交代現象が思春期以降に頻発するようになったとしても、誰かの声を頭の中で聴いていたという体験や、実在しないはずの人影が視野の周辺部に見え隠れしていた、などの記憶が幼児期にすでにあったというケースは少なくない。ただし通常は解離性障害の現病歴の開始を、日常生活に支障をきたすような解離症状が始まった時点におくのが適当である。
 もちろん解離性障害の患者の中には、幼少時の解離症状が明確には見出せない場合もあり、その際は現病歴の開始時を特定するのもそれだけ容易になる。たとえば解離性遁走の場合は突然の出奔が生じた時が事実上の発症時期とみなせるだろう。また転換性障害についても身体症状の開始以前に特に解離性の症状が見られない場合も多い。ただしDIDの場合には、遁走や転換症状はその症状の広いスペクトラムの一部として頻繁に生じることがむしろ通例である。
 
解離性障害の現病歴を聴取する際特に注意を向けるべきいくつかの点を挙げて論じよう。それらは記憶の欠損/交代人格の存在/自傷行為/種々の転換症状、などである。
 記憶の欠損の有無を聞くことは、精神科の初診面接ではとかく忘れられがちであるが、解離性障害の場合には極めて重要である。記憶の欠損が解離性障害の診断にとって必須の条件というわけではないが、同障害の存在の重要な決め手となる。人格の交代現象や人格状態の変化は、しばしば記憶の欠損を伴い、患者の多くはそれに当惑したり不都合を感じたりする。しかしその記憶の欠損を認める代わりに、患者は多くは「もの忘れ」が酷かったり注意が散漫だったりすると思われるほうを選ぶかもしれない。初診の際も患者は問われない限りは記憶の欠損に触れない傾向にある。面接者の尋ね方としては、「一定期間の事が思い出せない、ということが起きますか? 例えば昨日お昼から夕方までとか。あるいは小学校の低学年の事が思い出せない、とか。」等が適当であろう。
 交代人格の存在に関する聴取はより慎重さを要する。多くのDIDの患者が治療場面を警戒し、交代人格の存在を安易に知られることを望まないため、初診の段階ではその存在を探る質問には否定的な答えしか示さない可能性もある。他方では初診の際に、主人格が来院を恐れたり警戒したりするために、かわりに交代人格がすでに登場している場合もある。診察する側としては、特にDIDが最初から強く疑われている場合には、つねに交代人格が背後で耳を澄ませている可能性を考慮し、彼らに敬意を払いつつ初診面接を進めなくてはならない。「ご自分の中に別の存在を感じることがありますか?」「頭の中に別の自分からの声が聞こえてきたりすることがありますか?」等はいずれも妥当な質問の仕方といえるだろう。
自傷行為については、解離性障害にしばしば伴う傾向があるために特に重要な質問項目として掲げておきたい。「カッティング」(リストカットなど自傷の意図を持って刃物で身体に傷を付ける行為の総称)による自傷行為は、それにより解離状態に入ることを目的としたものと、解離症状、特に離人体験から抜け出すことを目的でとしたものに大別される(岡野、2007)。またいずれの目的にせよ、そこに痛覚の鈍磨はほぼ必ず生じており、その意味ではカッティングは知覚脱失という意味での転換症状の存在を前提としていることになり、それだけ他の解離体験も有している可能性が高くなる。ただしカッティングが解離症状や過去のトラウマ体験に直接関係していない場合も当然ながらある。そのことはその他のimpulsive-compulsive behaviors (衝動的強迫的行動)についてもいえることである。
 転換性障害を疑わせる身体症状の有無にも注意を払いたい。転換症状はその他の解離症状に伴って、あるいはそれらとは独立してみらえる場合が多い。症状が急速に生じてやみ、内科的な身体所見がみられない場合などはその可能性がある。
  解離性障害が強く疑われる患者には、それ以外にも一連の体験の有無、たとえば鏡で自分を見ても自分ではない気がすることがあるか否か、自分が所有している覚えのないものを持っていることがあるか否か、などのより詳細な質問を重ねることが筆者は多い。これらはDES(解離体験尺度)に出てくる質問でもあるが、それぞれが解離症状の様々な側面を捉えたものである。逆にこれらの質問に対して肯定的な答えをする人ほど、DESの点数が高くなることになる。(DESは簡便な尺度であり、待ち時間等を利用して患者に施行することは、解離性障害の診断にとって大きな情報を与えてくれる。)
 それ以外にも患者が知覚の異常、特に幻聴や幻視についての体験を持つかについても重要な情報となる。その際幻聴のもととなる人をある程度同定できることはそれが解離性のものであることを知る上で比較的重要な手がかりとなる。それが自分の中の別人格であり、名前も明らかになる場合には、それはおそらく高い確率で解離性のものといえるであろう。また幻視は統合失調症ではあまり見られないものであるが、解離性の幻覚としてはしばしば報告される。それがIC(空想上の友達)のものである場合、その姿は視覚像として体験される場合もそうでない場合もある。またそれが実在するぬいぐるみや人形などの姿を借りるということもしばしば報告される。
生育歴と社会生活歴
解離性障害の多くに過去のトラウマやストレスの既往が見られる以上、その聴取も重要となる。特にDIDのように解離症状がきわめて精緻化されている場合、その症状形成に幼少時の体験が深く関連していることは必定である。ただしトラウマの存在は非常にセンシティブな問題を含むため、その聞き取りの仕方には言うまでもなく慎重さを要する。特にDIDにおいて幼少時の性的トラウマをはじめから想定し、いわば虐待者の犯人探しのような姿勢を持つことは決して勧められない。またDIDにおいて面接場面に登場している人格が過去のトラウマを想起できない場合もあり、さらには家族の面接からも幼少時の明白なトラウマを存在を聞き出せないこともまれではない。また幼児期に何が甚大なインパクトを持ったストレスとして体験されるかは子供により非常に大きく異なる。繰り返される深刻な夫婦喧嘩や極度に厳しいしつけが事実上のトラウマとして働くこともしばしばある。
 成育歴の聴取の際には、そのほかのトラウマやストレスに関係した事柄、たとえば家族内の葛藤や別離、厳しいしつけ、転居、学校でのいじめ、疾病や外傷の体験等も重要となる。またその当時からICが存在した可能性についても聞いておきたい。
 筆者にとって最近特に気になるのは、患者の幼少時ないし思春期の海外での体験である。ホームステイ先でホストファミリーから性的トラウマを受けるのケースは非常に多く、またそれを本人が一人で胸にしまっていたという話も頻繁に聞くのである。幼少時に安全な社会的環境で過ごすことは、小児がトラウマや解離性障害から身を守る上で極めて大切なことである。
精神症状検査
初回面接が終了する前にできるだけ施行しておきたいのが、いわゆる精神症状検査mental status examinationである。精神症状検査とは患者の見当識、知覚、言語、感情、思考、身体症状等について一連の質問を重ねた上で、その精神の働きやその異常についてまとめあげる検査である。ただし初回面接でそれをフォーマルな形で行う時間的余裕は通常はなく、およそ約5分ほどで、これまでの面接の中ですでに確かめられた項目を除いて簡便に行うことが通常である。たとえば幻聴体験についてすでに質問を行った場合には知覚の異常について改めてたずねる必要はなく、また言語機能についてはそれまでの面接での会話の様子ですでに観察されている、などである。その意味ではこの精神症状検査は初回面接が終わる前のチェックリストというニュアンスがある。解離性障害の疑いのある患者に対するこの検査では、特に知覚や見当識の領域、たとえば幻聴、幻視の性質、記憶喪失の有無、等が重要となる。
 なお精神症状検査には、実際に人格の交代の様子を観察する試みも含まれるだろう。ただしそこには決して強制力が働いてはならない。解離性の人格交代は基本的には必要な時以外はその誘導を控えるべきであるということが原則である。しかしまたそれは別人格が出現する用意があるにもかかわらずそれをことさら抑制することとは異なる。精神科を受診するDIDの患者の多くが現在の生活において交代人格からの侵入を体験している以上は、初回面接でその人格との交流を試みることは理にかなっていると言えるだろう。
 筆者は通常次のような言葉かけを行い、交代人格とのコンタクトを試みることが多い。「今日Aさんとここまでお話ししましたが、Aさんについてよく知っていている方がいらしたら、もう少し教えていただけますか?できるだけAさんのご様子を知っておく必要があります。もちろん無理なら結構です。」その上でAさんに閉眼をして軽いリラクセーションへと誘導し、「しばらく誰かからのコンタクトを待ってみてください。」そこで23分で別人格からのコンタクトが特になければ、それ以上あまり時間を取らずに、「今日はとくにどなたからも接触がありませんでしたね。結構です。」といってセッションを終える。もし別人格からのコンタクトがあれば、丁寧に自己紹介をし、治療関係の構築に努め、最後にAさんにもどっていただく。
 ただしこのような人格との接触は時には混乱や興奮を引き起こすような事態もあり得るため、他の臨床スタッフや患者自身の付添いの助けが得られる環境が必要であろう。そのような事態が予想される場合には初回面接ではそれを回避し、より治療関係が深まった時点で行っても遅くはない。(さらに同様の病態を十分扱う経験を持たない治療者の場合は、専門家のスーパービジョンも必要となろう。)
診断および鑑別診断
解離性障害にはDIDを筆頭にいくつかの種類があるが、内部にいくつかの人格の存在がうかがわれる際にも、それらの明確なプロフィール(性別、年齢、記憶、性格傾向)が確認できない段階では、ほかに分類されない解離性障害(DDNOS)としておくことが適当である。また解離性の健忘や遁走を主たる症状とする患者についても、その背後にDIDが存在する可能性を考慮しつつも、初診段階では聴取できた内容に基づく仮の診断に留めるべきであろう。
 なお解離性障害の併存症や鑑別診断として問題になる傾向にあるのは以下の精神科疾患である。統合失調症、BPD(境界パーソナリティ障害)、躁うつ病、うつ病、てんかん虚偽性障害、詐病、など。これらの診断は必ずしも初診面接で下されなくても、面接者は常に念頭に置いたうえで後の治療に臨むべきである。
診断の説明および治療指針
初回面接の最後には、面接者側からの病状の理解や治療方針の説明を行う。無論詳しい説明を行う時間的な余裕はないであろうが、短時間の面接から理解しえた診断的な理解やそこから導き出せる治療指針について大まかに伝える。それにより患者自らの障害についての理解も深まり、それだけ治療に協力を得られるであろう。診断名に関しては、それを患者に敢えて伝える立場と伝えない立場があろうが、筆者は解離性障害に関する診断的な理解を伝える意味は大きいと考える。少なくとも患者が体験している症状が、精神医学的に記載され、治療の対象となりうるものであるという理解を伝えることの益は大きいであろう。それは一つにはいまだに多くの場合、患者は統合失調症という診断を過去に受けており、しかもその事実を知らされずに投薬を受けているというケースが非常に多いからだ。
  患者がDIDを有する場合、受診した人格にそれを伝えた際の反応はさまざまであり、時には非常に大きな衝撃が伴う場合もある。ただし大抵はそれにより様々な症状が説明されること、そしてDIDの予後自体が、多くの場合には決して悲観的なものではないことを伝えることで、むしろ患者に安心感を与えることが多い。ただし予後をうらなう鍵として重大な併存症がないこと、比較的安定した対人関係が保てること、そして重大なトラウマやストレスを今後の生活上避け得ることについて説明を行っておく必要がある。
 治療方針については、併存症への薬物療法以外には基本的には精神療法が有効であること、ただしその際は治療者が解離の病理について十分理解していることが必要であることを伝える。また初回面接には時間的な制限があるために、解離性障害についての解説書を紹介することも有用であろう。

参考文献)

岡野憲一郎 (2007)解離性障害入門 岩崎学術出版社