2014年3月30日日曜日

続・解離の治療論(16)

子どもの人格が大人の情報を知っているということ

解離性障害の治療に携わるものにとって、子供人格と対面し、治療的な応対をすることは、治療者としてのキャリアーの一つの重要な里程標であり、少し大げさに言えば「帰還不能点 point of no return 」というニュアンスすらあるように思う。多くの治療者が解離を扱うことで一種の色眼鏡で見られるということを体験する。「あなたもあちら側の人になってしまったんだね?」という憐憫の混じったまなざしを同僚から向けられることだってありうるのだ。見た目は立派な成人の子供人格と、子供に対して行うのと同じようなプレイセラピーを行なうことは、人格交代という現象を認め、受け入れることを意味する。解離性障害を「信じない」立場の治療者にとっては到底そのようなかかわりは受け入れがたいということになるだろう。
 たとえ人格の交代現象そのものは認めたとしても、既に述べた子供人格の「出癖」の問題が頭をよぎるだろう。「子供人格がどんどん出るようになったらどうするのか?」「子供人格をそれとして扱うことで、医原性の人格交代を助長しているのではないか?」子供人格をそれとして扱うまでに治療者は、これらのいくつもの障壁を乗り越えなくてはならないのだ。
解離性障害の懐疑論者にとって格好の攻撃素材となるのが、この表題に掲げた、人格同士の情報共有の問題である。子供の人格との会話で時々不思議に思うのは、その語彙の思いがけない豊富さだ。子供人格は、しばしば幼児期に特徴的に見られるような発語の未熟さを示す一方では、その年齢の語彙にはないであろう単語が話に出てくることがある。たとえばある自称3歳の子供人格は「お姉さんは自動車教習所に行っている」と伝えてきた。しかしこれなどはこの年頃の子供の語彙にはないだろう。
 ここで解離性障害の治療に不慣れな治療者の頭には、またあの考えが頭をもたげてしまう。「やはりこの患者は子供の演技をしているだけではないのだろうか?・・・」「患者の演技に乗っている自分は、果たして治療者として振舞っていると言えるのだろうか?」
 しかし実際にはこのような現象は、DIDの方の持つ記憶や情報ソースには、何人かの別人格がアクセスできる場合があるということ以上の何も意味していない。いくつかの人格が全く異なる記憶を有しているというわけでは必ずしもない。ある仕事を主として人格Aがこなすものの、時にはBが手助けをする、という状況を考えれば良いであろう。その仕事に関する知識や記憶はABによって共有されることになるだろう。
また解離状態の中には、人格状態Aから人格状態Bへの移行が明確なスイッチングをともなわないという場合も考えられる。明白なDIDの症状を備える患者さんでも、「ABのどちらが話しているのかわからない状態」を体験することがある。
また最後にやはり可能性として考えなくてはならないのは、人格ABにスイッチした後も、依然としてAのふりを余儀なくされる何らかの事情がある場合である。DIDがいくつかの人格を有するという事情はしばしば誤解され、まともに信じてもらえないことが多いが、そうなると人格のスイッチングを隠す意味で別の人格のふりをする、ということも起きうるであろう。その意味では子どもの人格が必死に大人の語彙を用いて主人格のふりをし、その場に適応する努力をするという状況もありうることになる。DIDの患者のみが人一倍正直で虚偽的な振る舞いを一切見せないと信じること自体に無理があるであろう。
 ただしそうなると、子どもの人格が大人の語彙を用いること自体がかえって「やはり子供のふりをしているだけだ」と思われる原因となりかねない。その意味では子どもの人格が疑いを抱かせるような振る舞いをすること自体が、その子どもの人格の存在をより疑いのないものにしているとも言えるのである。