2014年3月29日土曜日

続・解離の治療論(15)


子どもの人格が「遊び疲れる」ということ

私が臨床上よく使う表現に、「子ども人格が出てくる際は、遊び疲れるまで相手をしてあげてはどうか」というものがある。実際子ども人格は遊ぶことである程度満足し、その後はゆっくり「休む」「眠る」という印象を受ける。この「遊び疲れ」のニュアンスは患者さん自身の表現にそのヒントが聞かれることがある。交代人格の中には短時間で引っ込んでしまう人がいるが、彼らがしばしば「眠気」を表現するのだ。あたかも彼らが持っているエネルギーに限界があり、一定時間以上は疲れて眠くなってしまうので内側に戻ってしまうということをしばしば聞くのである。
 もちろんこの「疲れ」や「眠気」にどのような生理学的な実態が伴っているかは不明であるが、少なくとも彼らの主観としてはそう体験されるらしい。ということはやはり、子ども人格は仕事中に飛び出してしまう傾向を抑えるためにも、しかるべき場(セラピーなど)でエネルギーを発散したもらうことが有効であると考えられるのだ。
ある30代のDIDの女性は、月に二度のプレイセラピーでは若い男性セラピストと汗ビッショリになるまで卓球に熱中した。それが数ヶ月続いたが、主人格が「体力的に限界を感じ」たのか、遊びはボードゲームに移り、その状態がさらにしばらく続いた。
別の30歳代のDIDの女性は、プライセラピーの間は子ども人格が竹馬に熱中し、翌日大人の人格が全身の筋肉痛を覚え、セッションの頻度を少なくすることを余儀なくされた。

子どもの人格を思う存分遊ばせることには、このように考えるといくつかの利点
がある。一つには、例えばその人格が「ぬいぐるみと思い存分遊ぶこと」を子供時代に実現出来たことがなく、ずっと夢見ていたことであった場合、それがもはや何も特別なことではないことと感じられるようになり、それに飽き、あまり興味を示さなくなることである。これは別の見方をするならば、子供人格が、いつでも出てこられるようになり、解離されたままでいる必然性があまりなくなるということである。もう一つは子どもの人格で遊ぶことが体力的な負担となり、どちらかといえば苦痛を伴うことであることを学習することで、それが出現する動機付けが低下することである。
しかしこのようなプロセスと同時に起きるべきことは、子どもの人格が実現するような遊び心を、大人の人格が持てるようになることである。それにより子どもの人格は隔絶される必要がなくなるわけである。
ここで一つの疑問として生じるのは次の点である。「子供人格と遊ぶことが本来の目的ではなく、大人の主人格が遊べるようになることではないか?」私が限られた臨床経験から言えることは、おそらく両方のアプローチが有効であり、二者択一的な問題ではないということである。しかし次のようなケースはしばしば、子供の方からのアプローチの有効性を示しているのではないかと思う。
前出の50代女性のDIDの方。子どもの人格が「お姉ちゃん」(大人の主人格のこと)の現在の様子を報告する中で、「おねえちゃん」の人生の過去の出来事も話すようになり、具体的な固有名詞や抽象概念が話に混じり、あたかも主人格と話しているのとあまり変わらなくなる場合にしばしば遭遇するようになる。