2014年2月14日金曜日

日本人のトラウマ(9)

 ここで最近の大津市の事件を例にとって考えよう。この事件は2011年10月滋賀県大津市内の市立中学校の当時2年生の男子生徒が、いじめを苦に自宅で自殺するに至り、いじめと自殺について大きな議論を巻き起こした事件である。
 この事件で問題になったいじめを起こした当事者である生徒たち、それ以外の生徒たち、学校の教員たち、教育委員会の委員たち、それ以外のどのレベルの集団にも同じ力学が働いている。「排除の力学」はすべての集団に共通だからだ。たとえばいじめを目にしても積極的に阻止することが出来なかった中学の教師たち。そこには教師という集団における「排除の力学」が生じていて、いじめを注意する、やめさせるという行為がなぜかその空気に反するという状況があったはずである。しかもここでは生徒と教師の全体という、より大きな集団の中での力学が生じていたことが伺える。いじめを真剣にやめさせるという行為は、生徒
教師という集団から排除されることを意味していた為に、それをあえてできなかったのだ・・・・。
 しかも教育委員会もこの生徒
教師と利害を共にしていたふしがある。いじめがあったことを認めることは、その大きな集団における共通の「利益」に反することになる。すると学校と歩調を合わせて、教育委員会もまた「いじめはなかった(あるいはあっても自殺の原因ではなかった)」と主張することになる。それに対して疑問を持っても、それをあえて口にできない委員たちはたくさんいたに違いない。皆ある意味ではこの「排除の力学」の犠牲者ともいえる。
さて私はこの「排除の力学」をあらゆる集団のレベルについて論じていることをここで繰り返したい。ということはマスコミも、その影響を受けながら生活をしている私たちも入っている。これを書いている私も該当することになろう。例えば私はこの原稿を書いている今、私は日本の出版の世界のことを意識している。出版社の意に大きく反してはいないだろうか。この本が店頭に並んで、私の文章を読んだ人が、「これってどうかな」と思われないようにするにはどうしたらいいか、など。
この「排除の力学」について考えることは、いじめのトラウマについて「だれが加害者か?」という問題を一気にあいまいになる。ある意味ではこの力学自体がいじめの加害者を生み出す原因ということになる。そこではいじめを受けた側にも同じ力が(逆方向に)及んでいるわけであり、状況が変ればそのベクトルが反転して自分が他者をいじめる側になる、ということはいくらでも起きうる。というよりその反転を恐れる心理が、いじめる側の力となっているのだ。
このように考えた場合、いじめる側の大半は、自分が犠牲になるのを回避する目的でいじめの側に回るわけであり、それなりに心苦しい体験をすることになる。いじめが生じていることを外部から指摘されたら、その人は否認したり、口をつぐんだりせざるを得ないし、いじめが露呈したら「本当にどうしてこんなことが起きるんでしょうね」という人ごとのようなコメントをするしかない。ある雑誌で、大津市の教育長は、「なぜお役所仕事の対応しかできないのか?」という問いに、「わかりませんね・・・・。私もなぜなのかな、と思っている」と答えたというが、実際にそれが彼の本音に近いと考える。
ちなみにこの「排除の力学」はその集団の外部にまでその影響力を及ぼしかねないということも重要である。本来会社に対して第三者的な立場であるはずの会計監査人さえも、この種の力のためにまともな仕事ができないことも少なくない。外部から来た人も、その集団に属した瞬間に外部性を失ってしまうほどに「排除の力学」は強力に働くのだ。このように書くとき、私は2011年に解雇されたオリンパスの元社長マイケル・ウッドフォード氏の事を考える。同社の改革を目指して乗り込んだものの、抵抗勢力の強大さからそれをあきらめたという経緯と理解している。彼が体験したことも別バージョンの「排除の力学」だったのだろうと思う。

「排除の力学」への文化の影響

「排除の力学」への文化的な影響はどうだろうか?「排除の力学」は日本社会の集団に独特の現象なのだろうか? そしてその顕著な結果として生じるいじめもまた日本文化に特異的な現象なのか? 私が長年滞在したアメリカの例を考えよう。アメリカのいじめは個人と個人の間に生じるというニュアンスが強い。クラスの生徒の多くが特定の生徒をいじめるという形を取りにくいのだ。そしていじめ対策に力を注ぐのは、クラスを担当する教師というよりは、学校専属の心理士やソーシャルワーカーである。その意味でアメリカのいじめは、学校という場で生じた個人間の加害-被害体験というニュアンスがある。
実際日本とアメリカでは、暴力事件が起きた際の学校側の対応はかなり異なる。学校で学生同士が暴力を働いた場合は、警備員や警察が呼ばれるのが通例である。現にSchool Resource Officer (SRO)と呼ばれる警官を常駐させている学校も多い。暴力は、身体的、言語的を含めて放っておかれることは普通はない。日本のいじめのように、教師も含めた学校全体の雰囲気が、いじめを見てみぬフリをするというところがやはり日本的なのではないか?そしてそれが「いじめを公然と批判すると、自分が排除されてしまう」という「排除の力学」の最も際立った特徴なのである。

日本の均一性こそが、いじめによるトラウマの元凶か?
いじめの問題を考える時、私がそれと関連した日本の集団の特徴として考えるのが、その構成メンバーの均一性である。一般に集団においては、お互いが似たもの同士であるほど、少しでも異なった人は異物のように扱われ、「排除の力学」の対象とされかねない。日本は実質上単一民族国家に非常に近いといってよく、メンバーは皆歩調を合わせ、何よりも「ほかの人と違っていないか」に配慮をする傾向にある。そのことが翻って私たち日本人の体験するトラウマの一つの大きな原因になっているというのが私の考えである。
ほかの人と違ってはいけない、という発想は、すでに学校生活が始まる時点で生じている。私が小学校に上がった年、学校に制服はなかったものの、みな判で押したように、男子は黒のランドセル、女性は赤のランドセルだった。その中で一人だけ黄色のランドセルだったU子ちゃんのことは、いまでも鮮明に覚えている。その目立ったこと・・・・。幸いU子ちゃんはいじめの対象にはならなかったが。なぜU子ちゃんのランドセルのことを私はそれほど鮮明に覚えているのだろう。おそらく6歳の私の中には、既に「みんな同じでなくてはならない」があったのだ。だから黄色のランドセルを背負っているU子ちゃんに対して違和感を感じたのだろう。「よくみんなと違う色のランドセルで平気なんだな。」
6歳ないしはそれ以前から日本人の心の中にある「皆と同じでないと・・・」という気持ち。このような現象はもともと似た者同士の集団においてより生じやすいはずではないか? アメリカなどでは、所属する集団の構成員のどこにも目立った共通点が見出せないということは普通に起きる。小学生達は色も形もまちまちのカバンを背負い、あるいはぶら下げている。そしてそもそも彼らの皮膚の色も人種も体型も最初から全く異なっているのである。
私が米国で精神分析のトレーニングを行っていたときのことも思い出す。クラスを構成していたのは、40歳代白人男性(アメリカ生まれ)、20歳代白人女性(アメリカ生まれ)、30歳代パキスタン人の男性、30歳代メキシコ人男性、20歳代後半のコロンビア人男性、そして30歳代日本人の私である。人種もアクセントもバラバラ。こんなグループではメンバーのそれぞれが違っているということを、初めから前提とすることでしかまとまらない。アメリカ生まれで白人男性であることはこのクラスではマイノリティーを意味してしまうのである。このような集団にいると、日本語のような敬語の存在しない、いわば究極のタメ語である英語は極めて便利だ。英語を用いることが、さらにメンバー間の格差をならしてしまう効果を持っているからである。

「場の空気を乱してはならない」
十数年間のアメリカでの集団のあり方にある程度順応してしばらくぶりに日本に帰ると、そこでの集団生活に私は大きな違いを感じ、またそれに当惑した。お互いに似た者同士ですぐに生じる場の空気の読みあい。そしてその空気を読み、それを乱すまいとする強い自制が必要となる。これに関する私の「異文化体験」を一つ例にあげよう。米国から帰国して最初の一年間、私はある精神科の病院で働いた。そこでは一つの病棟に配属され、40人程度の患者さんのうち約半分を担当したが、かなり頻繁に病棟に出入りしていたので担当以外の患者さんたちとも顔なじみになった。そこでの予定の一年間の期間の終了があと3ヶ月に迫ったので、その旨を病棟全体にアナウンスメントをしたい、とスタッフ会議で申し出た。実は私が一年で去ることは最初は病棟の患者さんたちに伝えていなかったのだ。(これはこれで問題かもしれないが、ここでは論じないでおく。) アメリカではこのような場合、それがかなりはっきりした予定であれば、3ヶ月ほど前にはその予定を伝えるということがよくあった。人は別離の際に、十分なモーニングワーク(喪の作業)が必要だということだが、この3ヶ月という期間自体に深い意味はないものの、まあまあ適切な配慮と思っていた。そこでスタッフに、私が去る3月の3ヶ月前の12月ごろに、そろそろアナウンスメントをしたいと申し出た。しかしスタッフからの反応は全体として消極的なものだった。「いや、まだいいでしょう」という反応が大半だったのである。そこで私もその時はあきらめ、年が明けて1月になり、「そろそろ・・・」と言い出したが、「まだ駄目だ」という。結局退職の予定日の3週間前になって、患者たちに「実はあと3週間で、私はこの職場を去ります」と伝えたわけだが、スタッフの中には「出て行く一週間前に伝えるのでもいい」という意見もあった。
 私はこの日米の顕著な違いに興味を持ち、その理由を病棟のスタッフに尋ねたが、はっきりとした答えは返って来なかった。しかしなんとなくわかったのが、「何もそんな前から、退職をするということを言って、患者に無用な混乱を与えることはない」という理由だった。「無用な混乱を与えたくない。」つまり「場の空気を乱してはいけない」というわけだ。私はこの考えを極めて新鮮なものとして受け止め、同時に一種の逆カルチャーショックを味わった。そして気になりだすと、実は同様の場面に頻繁に出会うことに気が付いた。昨年の東電の事故の際も、深刻な事態が起きているにもかかわらずそのアナウンスメントが遅れた理由を突き詰めると、「無用な混乱を避ける」ということらしい。最近のいじめの被害者の自殺の問題で、学校側や教育委員会が、その存在を明確にしなかった理由についてもそのようなニュアンスが感じられる。
この「場の空気を乱さない」の特徴は、その結果生じることはさておき、今、ここでの場の空気を最優先するという点だ。私が退職することを急に知ったときの患者さんたちの混乱はまだ先のことであり、現在の場の空気を乱さないことが最優先される。
ところで内藤朝雄氏(2009)はその著書で私たちが従う秩序を「群生秩序」と「普遍秩序」に分け、特に前者についていじめとの関連で論じている。私がここで言う「場」とはまさに彼のいう「群生秩序」に相当するだろう。内藤氏はそれを「『今・ここ』のノリを『みんな』で共に生きる形が、そのまま、畏怖の対象となり、是/非を分かつ規範の準拠点になるタイプの秩序である」、と表現しているが、この「今、ここのノリを守る」という点がまさに場の空気を考える上で重要なのだ。

とにかくこの「集団を混乱させてはいけない」、「場の空気を乱してはいけない」というのは極めて日本人的であり、おそらくは日本人の対人場面における「皮膚感覚」に関係しているというのが私の考えである。日本人は集団でいる時、あるいは単に誰かと二人でいる時、相手の気持ちへの感度が高く、場を読む(感じる)力が強すぎて、それにより自分を抑えたり、相手に迎合したりということがあまりに頻繁に起きるのではないか。証明のしようがないが、体験上そう思える。この件については後ほどもう一度論じたい。