2014年2月16日日曜日

恥と自己愛トラウマ(11)

読者(いたらね)には済まないと思う。この話題、このブログでは3回目である。ただし細かくリライトはしているわけだが。


第6章 職場でのトラウマと「現代型うつ病」(リライト)
「現代型うつ病」や「新型うつ病」という言葉を昨今よく聞く。マスコミでは2006、7年あたりから扱われることがより顕著になったようである。この概念は一種の流行といっていいが、それなりに誤解されているような気がする。そこでこの概念について考察を加えてみたい。ここで浮かび上がってくるのは、私たち日本人が職場で体験する様々なトラウマである。
「現代型うつ病」という概念には独特のネガティブな色がついている。それは次のようなものである。
最近若者が仕事を放り出して安易に会社に休暇願を出す。特に病気でもなさそうなのに、医者は「うつ病」の診断書を書き、それを聞きとして提出する。何かおかしい。現代の若者に特徴的な病気ではないか?うつはうつとしても「現代型うつ病」とでもいうべきであり、その本態はうつではなく、単なる怠けである・・・・。
2007年の「こころの科学 #135」はこの問題を特集したが、サブタイトルがそれっぽいトーンである。「職場復帰 うつかなまけか」。この書の冒頭で編集を担当した松崎一葉先生(筑波大学)が書く。
本当にうつ病なんですか? なまけなんじゃないんですか?」こうした人事担当者の問いに窮する企業のメンタルヘルス関係者が増えてきた。近年、企業内で増えているのは、従来のような過重労働のはてにうつになる労働者たちではなく、パーソナリティの未熟などに起因する「復帰したがらないうつ」である。
従来のうつの場合は、治療早期にもかかわらず、早く復帰することを焦るケースが多かった。ところが近年では寛快状態となり職場復帰プログラムを開始しようとしても「まだまだ無理です」と復帰を出来るだけ回避しようとするタイプが増えてきている。」
さらに「人事担当者には、外見上の元気な姿や友人と楽しく語るさまを見れば、「なまけている」としか映らない。会社を長休職していることに「申し訳ない」という気持ちは少ない。主治医の診断書は「うつ状態にてさらに一ヶ月の休養を要す」と毎月更新される。「いったいいつまで休むつもりなのか?」と人事担当者や上司は苛立つ。時には、このような状況が就業規則で定められたギリギリの休職期限まで続く。」(松崎一葉)

本屋で見かける関連書籍も似たような論調で書いてある。目につくものだけでもこれだけあるのだ。

l        林公一 擬態うつ病 2001年 宝島社新書
l        林公一 それは「うつ病」ではありません! 宝島社新書 2009年
l        吉野聡 それってホントに「うつ」?  講談社α新書 2009年
l        香山リカ「私はうつ」と言いたがる人たち 中公新書  2008年
l        香山リカ 仕事中だけ「うつ病」になる人たち 講談社 2007年
l        植木理恵「うつになりたいという病」集英社新書、2010年
l        中嶋聡「新型うつ病」のデタラメ  新潮新書、2012年
l        香山リカ 雅子さまと「新型うつ」 朝日新書、2012年。
l        吉野聡「現代型うつ」はサボりなのか 平凡社新書 2013年

林公一先生の著書を除いてここ数年で出版されたものばかりであるが、ある意味では林先生の先見の明を示しているのかもしれない。そして林先生の本(「擬態うつ病」)の論調がまさに冒頭で示したとおりである。

1.果たして「現代型」、「新型」のうつなのか?

まずは現代型うつ病とは本当に現代型、新型なのかという話から始めたい。結論から言えば、同様の状態は古くから知られていたということである。いくつかの概念が提唱されてきた。それらは例えば「逃避型抑うつ」(1977年、広瀬徹也氏)、「退却神経症」(1988年、笠原嘉氏)「現代型うつ病」(1991年、松浪克文氏)「未熟型うつ病」(1995年、阿部隆明氏)、「擬態うつ病」(2001年、林公一氏)、「ディスチミア親和型」(2005年、樽味伸、神庭重信氏)などである。
これらのネーミングからわかるとおり、「本当のうつ病」とは少し違うもの、何かそこに性格的な未熟さや、怠け心などの疾病利得の追及が見え隠れするもの、というニュアンスはあった。ただし笠原先生の「退却神経症」は例外である。こちらは「神経症」つまりノイローゼというカテゴリーで論じていることになる。このの概念を提唱した笠原嘉先生は今でもご健在だが、彼が1980年代からすでに、現代の「新型うつ病」の概念を先取りしていたことがわかる。彼はこう書いている。

 [退却神経症は] 単なるなまけ病ではないか?それがどうも違うのである。…どちらかというと、よくやる人たちだった。「退却」などという軍隊用語を借用したのは、そのことを言いたかったからだ。…まじめにやっていた人たちの、突然の戦場放棄である。(退却神経症(P8~9) (笠原嘉 1988年)
さらに
「少し暗い感じはするが、立派な青年である。・・・ところがちょっと気になることがある。2,3日の休みを断続的に繰り返しているのだが、自分はなやんでいるはずだ、と思っていたのに、彼自身はけろっとしている。・・・周りの人が大変心配しているのに、ご本人は意外に「ヌケヌケ」している。・・・(p27)」退却神経症 (笠原嘉 1988年)
「もしうつ病なら、現代の精神医学はかなり効率の高い治療法を提供できるからである。・・・これに対して退却神経症の治療法は、うつ病のときほど画一的ではない。・・・退却神経症はノイローゼなので、つまり社会適応への挫折なので、治療は人それぞれであらざるを得ない。(p59)」
ところでこのように「新型」の特徴をとらえているにもかかわらず、笠原先生の概念だけ「退却神経症」という、鬱以外の診断名を考えているのは興味深いところである。これは私が後ほど述べる、「現代型とは結局はうつというよりは一種の恐怖症である」という主張とも重なる。云うまでもなく恐怖症は神経症の範疇に属するのだ。
笠原先生は実は1970年代には、いわゆる登校拒否の問題を扱うようになってきている。そして同様の心的メカニズムが、若者の出社拒否についてもあるであろうと考えている。そしてその背景にある概念が、その頃米国ではやったいわゆる「アパシー・シンドローム(apathy syndrome)」の概念であった。これはハーバード大学の精神科医R.H.ウォルターズ(R.H.Walters)によって提起された概念である。簡単に言えば青年期における発達課題である『自己アイデンティティの確立・社会的役割の享受』に失敗した時に発症リスクが高まるとされる。ただし現代の米国精神医学ではあまり聞かれないのだ。

さて私はこれまで「現代型」のうつ病について何度となく講義で話したり、講演をしたりしたが、概して精神科医からの受けはよろしくない。「現代型うつ」なんてマスコミがでっち上げたものであり、まともな精神科医が論じるべきではない、という話もよく聞く。あるいは先ほど述べたように、同様の概念は遥か昔からある、という議論も多い。しかしすでにみた「それは『うつ病』ではありません!」や「それってホントに『うつ』?」や「『私はうつ』と言いたがる人たち」、「仕事中だけ『うつ病』になる人たち」などの著作とともに、この「現代型うつ病」というテーマで本を書いているのもれっきとした精神科医の先生方なのである。
その中でより格調高く、アカデミックな色彩が整えられており、精神科医がまともに議論しているのが、「ディスチミア親和型」(うつ病)という概念で、樽味伸、神庭重信といった精神科医達が提唱している概念である。(「うつ病の社会文化的試論-とくにディスチミア新和型うつ病について 日本社会精神医学会雑誌  13:129-136, 2005」神庭重信先生は九州大学大学院の教授であり、この概念の名付け親は、九州大学大学院生の樽味伸(たるみ しん)という方である。(2005年7月、33歳で死去なさったそうである)。
 この
ディスチミア新和型うつ病については、これはもともとメランコリー親和型といわれる、ドイツのテレン
バッハという精神病理学者が主張したうつ病の性格特性の考え方が下敷きになっている。メランコリー親和型とは、生来几帳面で責任感が強く、対人関係でのストレスを打ちに溜め込みやすい性格である。ところが現代型うつに特徴的な性格傾向はそれとはむしろ逆な、責任を他人に転嫁するようなタイプと考えたのである。そしてそれをディスチミア新和型の性格傾向と捉え、それを持つ人がなりやすいうつ病をディスチミア新和型うつ病と呼んだのである。ただしその内容を読んでも現代型うつ病や新型うつ病とほとんど変わらない。ただ精神医学的な体裁が整っているという点が違うという印象を受ける。
ちなみにこのブログでは2011年の2月以来この話をするのは3回目であるが、そのときも掲載した表だが、今回もまた掲載する。ディスチミア親和型の性格特徴を見ると、まさに現代型うつ病そのものであるということがわかるだろう。


ところでこれらの現代型うつ病の概念に真っ向から反対する精神医学者もいる。その代表として中安信夫氏が上げられる。中安先生は私が昔ご指導いただいた先生で、高名な精神病理学者である。彼はDSM反対論者としても知られるが、ある論文(中安信夫、ほか:「うつ病の広がりをどう考えるか」日本精神神経学雑誌、2009年の第6号)で次のように主張している。
「そもそも伝統的には、うつ病は次のように分類されていた。内因性と、反応性(心因性)と。これは基本的には妥当な分類だ。後者は抑うつ反応と、抑うつ神経症に別れるが、ある種の出来事に対する反応という意味では似ている。両者の違いといえば、「時が癒す」ことが出来れば抑うつ反応。「時が癒し」てくれなければ抑うつ神経症。つまりもともと性格の問題があると、時間が経っても体験の影響を受けつづけると考えられるからだ。ところが最近のDSMはこの基本的な分類を混乱させている。特に「大うつ病 major depression」という概念が問題だ。そもそもDSMの「成因を問わない」という方針が大間違いであり、従来の診断からは当然抑うつ反応や抑うつ神経症になるべきものが、「大うつ病」に分類される。なぜなら症状をカウントして9項目中8項目を満たす、などと機械的に診断を用いることで、簡単に大うつ病になってしまうからだ。従って「新型うつ病」という新しいうつ病も存在しない。それは本来は、心因反応や抑うつ神経症という診断をつけるべきものであり、それがDSMにより大うつ病と誤診されたものであるに過ぎない。その診断書をもって休職届けを出す人が増えた、というだけの話である。」
 
中安先生の意見をまとめると、DSMは本来深刻なうつではない状態を、うつ病という診断にしてしまうという問題がある、ということだ。それに対する私の意見は以下のとおりである。私は伝統的な意味でのうつ病とは言えない、中安先生のおっしゃる意味での継承のうつ状態が増えてきているという事実はやはり認識するべきではないかと思う。それはたまたまDSMを使うと深刻なうつ(大うつ病)と診断されてしまい、混乱を招くが、この敬称のうつ病が増えているという可能性自体は否定できないであろう。課題はなぜそのようなうつが増えているか、ということである。
私は中安先生は、DSMの大うつ病の概念を全面否定することに性急なあまり、理論的な整合性を犠牲にしてしまっているのではないかと思う。先生はかねてからDSMの「成因を問わない」という「操作主義的」な点を痛烈に批判なさる。しかしDSMのそのような性質は、もちろん多くの問題を含んでいるものの、精神医学の歴史の流れの上である程度の必然性をともなってできたものであり、その価値を白か黒かで簡単には決められないと私は考える。中安先生は輝かしい業績のある、日本の精神医学の頭脳とでもいうべき存在ではあるが、DSMに対する反発や怒りが、彼の臨床観察の精度を落としているように思えてならない。
 うつをひとつの症候群とみなして、「不眠、抑うつ気分、食欲の減退、自殺念慮・・・・などをいくつ以上満たしたら、うつ病と呼ぼう」という約束事はやはり必要と思う。なぜなら何をうつ病と呼ぶかが、人によりあまりにも異なるからだ。うつを内因と心因に分けるという発想自体が過去のものになりつつある。それが内因性でも心因性でも、症状が出そろえばうつはうつ、なのである。一見心因性と思われたうつが、結局長引いて深刻なうつになる、ということが実際に起きるからだ。そうすると脳に直接働く抗鬱剤も効くようになる。それほど心因性の疾患という概念は曖昧な点を含んでいる。何が心因かが結局は主観的な問題でしかありえないということを、この四半世紀のあいだの外傷理論の変遷が示しているのだ。
 
2.いっそ、うつ病と考えないほうがいい?

さて私もまた現代型うつという概念にやや批判的なのであるが、それは中安先生やそのほか精神科医の意見とは異なる意味でそうなのである。私は現代型うつと呼ばれるうつのタイプは昔から存在してたということ以外にも、その病態はあまり典型的なうつ病とは言えない以上、あまりうつ病と考えないほうがいいのではないか、むしろ笠原先生のように「神経症」の部類として捉えるべきなのではないか、という意見をもっている。ただし単なる神経症というわけではなく、ある程度の抑うつ傾向を伴った神経症であり、会社での不適応状態が主たる原因である場合が多い。うつ症状としては軽度だから、仕事の時間以外ではむしろ元気が出るということも生じる。しかしそれは彼らが「怠けている」と決め付ける根拠にはならないのだ。
そもそも現代型うつ病を論じるうえで一番のキーワードは、「なまけ」であった。私たちは(特に日本人は、というべきだろうか?)なまけということに敏感だ。「自分はなまけているんじゃないか?」と常に自分に問いただしていると言うところがある。あるいは人に「なまけてるんじゃないか?」と思われているのかと常に気を緩めないようにしている。
 みなさんの中に、学校を休む時に「これは病気ではなくてなまけではないのか?」と自らに問うたことはないだろうか?それでも体温計で熱が8度代以上だと、休むことに後ろめたさをあまり感じずにすむ。病気である、具合が悪い、ということを数値で客観的に示すことができるからだ。ところがうつ病のような気分の問題は、それが数値化されないだけに厄介である。現代型うつ病がこれほどネガティブなトーンで語られるのも、それが「実は本物のうつ病ではなく、なまけである」という可能性を示唆しているからだ。確かに彼らの行動には、「病気による休職期間に旅行に行く」とか「就業時間の間は元気がないのに、それを過ぎたら嬉々として飲み会に出席する」などの行動が見られることが報告される。するとそれが「仕事中だけ『うつ病』になる人たち」(香山リカ先生、講談社)となってしまうのである。 
 しかし実際は、一切のことに興味を失うのは重症のうつの場合で、うつが軽度の場合は、いろいろな中間状態が起きうる。あるうつの患者さんはこう言った。「うつになると、楽しんでやれるということが非常に限られてくるんです。」「友達と会っている時は精いっぱい笑顔を作り、盛り上がるようにします。そして帰るとどっと落ち込むのです。」これらの言葉は、うつ病の人が外からは生活を楽しんでいるように見えても、案外内情は複雑であることを示していると思われるであろう。
そこで2年前にこのテーマについて論じたときに、ちょっと当たり前の図を作ってみた。再びここに掲載しよう。縦軸は、ある行動の量、横軸はうつの程度を示す。

そして行動としては、快楽的な行動(自分で進んでやりたい行動)と苦痛な行動(義務感に駆られるだけの行動)を考え、それぞれがうつの程度により低下する様子を示した。うつの深刻度が増すとともに、快楽的な行動も、苦痛な行動もやれる量が下がってくる。ただその下がり方にずれがあるのだ。うつでない場合(Aのラインに相当)は、快楽的な行動だけでなく苦痛な行動も、それが必要である限りにおいては出来る。うつが軽度の場合(Bのラインに相当)は、苦痛な行動は取りにくくなるが、興味を持って出来ることは残っている。うつがさらに深刻になると(Cのラインに相当)両者とも出来なくなるわけだ。
行動を、快楽的なものと苦痛なものにわける、という論法は、故安永浩先生の引用するウォーコップの「ものの考え方」理論に出てくる。苦痛な行動は、私たちがエネルギーの余剰を持つ場合には、エネルギーのレベルを持ち上げることでこなすことができる。賃金をもらうためにだけ行う単純な肉体労働であっても、「ヨッシャー、ひと頑張りするか!」と自分を鼓舞することで、若干ではあっても快楽的な行動に変換できるからだ。(つまり行動自体は苦痛であっても、それをやり遂げて達成感を味わうための手段にすることで、それは幾分快楽的な性質を帯びることになるわけだ。「やる気を出す」、とはそういうことであり、うつの人が一番苦手とすることである。)
私が特に注意をしていただきたいのは、Bのラインの状態であり、好きなことは出来ても義務でやることは出来ないという状態だ。このような場合、好きなことを行うのは、自分のうつの治療というニュアンスを持つ。うつが軽度の場合、例えばパチンコを一日とか、テレビゲームを徹夜でする、とかいう行動がみられる場合があるが、これはそれによる一種の癒し効果がある場合であり、うつの本人にとっては、「少なくともこれをやっていれば時間をやり過ごすことができるからやらせてほしい」という気持ちであることが多い。しかしそれを見ている家族や上司は実に冷ややかな目を向けるのである。「あいつは仕事にもいかないで一日中ゲームをやっていてケシカラン。やはりなまけだ・・・・。」


3.結局決め手は自殺率である― 張賢徳医師の見解

ところで精神科医の張賢徳先生のご意見は、現代型うつ病という概念を保っているものの、私にとっては好感が持てる。上述の精神神経誌の同じ号に掲載された彼の説を私がまとめてみよう。
 張先生によれば自殺者の90パーセントが精神障害を抱えており、過半数がうつ病であったという。そして「うつ病患者は増えているのか」という本質的な問題については、二つの可能性について論じている。ひとつはうつ病が受診するようになったからであり、もうひとつはうつ病概念が拡散したからということだ。その上で彼はやはりうつ病は実数が増加しているという立場を取る。
 そして先生の結論はさすがである。「内因性でも、それ以外でもうつはうつだ。自殺は起きうるではないか。ちゃんと対応しなくてはならない。」
私も同感である。わが国での自殺人口は去年(2012年)は2万7千人台であり、15年ぶりに3万人を切ったとはいえ、先進国の中でも若者の自殺は依然として高い傾向にある。そして若者を中心に広がっていると言われている現代型うつの年齢層が自殺に関しても高い率を示している以上は、たとえ「現代型」「仕事中だけうつ」だとしても深刻な状態として扱うしかないであろうと思う。