2014年1月30日木曜日

職場におけるいわゆる「新型うつ病」について(3)

2.「好きなことならできる」、はうつではないのか?
「現代型うつ」の最大の問題は、それがさぼりなのではないか、という議論である。そこで一つ原則に戻って考えたい。うつの時は好きなことをしてはいけないのか。好きなことならできる、というのはうつではないのか、という問題だ。
私はうつが疑える患者さんにしばしば次のような質問をする。「2週間の有給休暇がもらえたとしたら、あなただったらどうしますか?」質問の狙いは、「二週間の間、とにかく寝ています。」という返事が返ってくるか、だ。なぜならそれが深刻なうつ病の典型的な考えだからである。
風邪で39度の熱が出てウンウン唸っている時を考えて欲しい。いくら時間とお金があっても、布団にもぐりこんでいたいだろう。うつはそういう状態である。しかし一月間自宅療養が必要という医師の診断書をもらった社員が、その間にカナダの友人のところに行ったからと言って、それが鬱ではないという証拠にはならない。ちょうど39度の熱ではなく微熱程度で頭痛はするものの、以前から約束していたディズニーランドに行くことにしたという例を考えよう。人間楽しみでなくても義理で、あるいは約束があるから遊びに行く、ということはあるだろう。TDLに行ったからと言って、その人が元気でピンピンしていたということにはならない。
そこでちょっと当たり前の図を作ってみた。縦軸は、ある行動の量、横軸はうつの程度を示す。そして行動としては、快楽的な行動(自分で進んでやりたい行動)と苦痛な行動(義務感に駆られるだけの行動)を考え、それぞれがうつの程度により低下する様子を示した。うつの深刻度が増すとともに、快楽的な行動も、苦痛な行動もやれる量が下がってくる。ただその下がり方にずれがあるのだ。うつでない場合(Aのラインに相当)は、快楽的な行動だけでなく苦痛な行動も、それが必要である限りにおいては出来る。うつが軽度の場合(Bのラインに相当)は、苦痛な行動は取りにくくなるが、興味を持って出来ることは残っている。うつがさらに深刻になると(Cのラインに相当)両者とも出来なくなるわけだ。

行動を、快楽的なものと苦痛なものにわける、という論法は、私が私淑している安永浩先生の引用するウォーコップの「ものの考え方」理論に出てくる。苦痛な行動は、私たちがエネルギーの余剰を持つ場合には、エネルギーのレベルをを持ち上げることでこなすことができる。賃金をもらうためにだけ行う単純な肉体労働であっても、「ヨッシャー、ひと頑張りするか!」と自分を鼓舞することで、若干ではあっても快楽的な行動に変換できるからだ。(つまり行動自体は苦痛であっても、それをやり遂げて達成感を味わうための手段にすることで、それは幾分快楽的な性質を帯びることになるわけだ。「やる気を出す」、とはそういうことであり、うつの人が一番苦手とすることである。)
私が特に注意をしていただきたいのは、Bのラインの状態であり、好きなことは出来ても義務でやることは出来ないという状態だ。このような場合、好きなことを行うのは、自分のうつの治療というニュアンスを持つ。うつが軽度の場合、例えばパチンコを一日とか、テレビゲームを徹夜でする、とかいう行動がみられる場合があるが、これはそれによる一種の癒し効果がある場合であり、うつの本人にとっては、「少なくともこれをやっていれば時間をやり過ごすことができるからやらせてほしい」という気持ちであることが多い。しかしそれを見ている家族や上司は実に冷ややかな目を向けるのである。「あいつは仕事にもいかないで一日中ゲームをやっていてケシカラン。やはりなまけだ・・・・。」