2014年1月14日火曜日

恥から見た自己愛パーソナリティ障害(30)

アスペルガー問題と自己愛
ところでこのままだと自己愛と怒りの問題は終わってしまうのだが、どうしてもひとつ付け加えておかなくてはならないテーマがある。それがアスペルガー問題なのだ。私にとって気になってしょうがないアスペルガー問題。まさかここで「アスペルガー障害は自己愛の病理である」などと言い出すわけもない。両者は私の頭の中だけで根拠なくつながっているだけだ。でも彼らにとって尋常でない怒りの問題が、どうしても「どこから彼らの怒りが来るのか?」という問題へと関心を向かわせ、すると出てくるのが、やはり自己愛憤怒の問題なのである。
これまで慣れ親しんできた自己愛の風船の比喩を用いようか。(スペース稼ぎでは決してない。)

過敏な自己愛を追加した図




病的な肥大した自己愛を私はもっぱら問題にしてきた。確かにやたら大きな風船を持つはそれだけ人とぶつかりやすい。自己愛的な人はちょっとした非礼も許さない。部下がチラッと怪訝そうな目で見た、というだけで「反抗的だ!」となるかもしれない。北の寒い国なら処刑ものだろう。でもどうだろう?それほど肥大していなくても敏感な風船はいくらでも考えられるのではないか?
 昨日のブログで書いたEさんのように、膨らませようにも膨らませることができず、小さいままで燻っている人の場合はどうか。彼は家庭内で、小さな部署内で、小さいけれどものすごく敏感な風船を保つことになる。周囲はすごくピリピリするだろう。ここで風船が小さい、というのは、一歩外に出てしまうとそれをふくらませようがなく、小さくなっている以外にないからであり、要するにその風船を侵害する人の「人数」が少ないというだけだが、その人の数少ない部下にとってはあまり風船の大きさなど関係ないかもしれない。
 さてもう一つ問題なのが、小さい風船の敏感さが、ある種の被害妄想的な色付けを伴っている場合である。私の中で確信に近くなりつつあるのは、「アスペルガー傾向が被害妄想傾向(恨み)を持ちやすい」ということだ。もちろん心優しいアスペさんもいる。でもその中核にある病理は恨みがましさである。中核症状=他人の心の分かりにくさだからだ。人は他人の心が見えない分だけ猜疑的になるだろう。ただし見えない分だけ楽観的になる人もいる。ということは「アスペルガー+Eさん傾向」というのが最悪の組み合わせということか。こうなると厄介なことになる。アスペルガー傾向の人たちは大きい自己愛の風船を持っているだろうか?必ずしも。というより周囲にあまり関心がないかも知れない。しかし彼らが関心がないのは周囲の人々の気持ちであって、自分自身は人恋しさや羨望を人一倍持つ。そう、彼らもまた小さいけれど敏感な風船を持つ人々の中に数えられてよく、周囲はそれなりの覚悟が必要だろう。
でもこうなると私は自己愛の風船について二つのファクターを扱っているということに気がつくのだ。つまり風船の大きさと過敏さと。そしてこれが自己愛の問題でいつも行き着く問題、すなわち過敏性の自己愛の問題なのだ。この問題についておさらいしておこう。自己愛の病理には二つあるらしい。それは無関心型と過敏型である、ということだ。無関心型は、一般的なナルシシズム、つまり人に対して横柄で、他人を自分の満足の為に利用する傾向。それに比べて花瓶、じゃない過敏型とは、人に自分の自己愛を傷つけられることを常に恐れているタイプ。私はこちらの過敏性自己愛のことを、対人恐怖傾向と自己顕示傾向の混合であると論じたのだ。ここらへんはほとんど自分の体験だな。私は両方の傾向を持っている。人前で自分のことを滔々と喋る、というタイプでは決してない。だからそのようなタイプに出会うと、すぐさま観察する側に回ってしまう。人と対面していて自分が喋りだすと、その分目の前の人の時間が奪われていく様子がカウントダウン形式で心に表示される。


まあそれはいいとして、私はこの問題を対人恐怖と自己愛はどのように「打ち合うのか」(二つの波が「打ち合う」というニュアンスで)が常に興味があったのである。