2013年3月31日日曜日

DSM-5と解離性障害(1)



 アメリカに、デービッド・シュピーゲルという精神科医がいる。世界的な解離の専門家で、私はかなり前から彼のファンであった。写真まで出してしまおう。
ドクター・シュピーゲルは2013年の5月に発行となるDSM-5における解離性障害の編集の中心人物である。大昔、ハーバーと・シュピーゲルという催眠の大家がアメリカにいて、その息子さんがあとを継いだわけだ。このたび彼とメールでコンタクトを取ることが出来、いくつかの貴重な資料をいただいたが、それと言うのも「DSM-5 における解離性障害」というテーマで、どうしてもブログに書かなくてはならない事情が生じたからだ。夏までに何とか考えをまとめないと、人に迷惑をかけてしまうことになる (ナンのことだ?) こういうことでもない限り、気の弱い私がこんな高名な先生にメールなど送れないではないか。

DSM-5は前回のDSM-IV1994年の発刊)から20年近くも経ったこともあり、相当の情報がつまり、分厚くなりそうで憂鬱になっていたのだ。(チラッと見たBPDの診断基準など3倍くらいの長さになっていた。)しかしDSM-5がいかに書き上げられるかは、欧米の精神医学の最先端を知る上でも非常に貴重なものである。そして解離の世界でも、このDSM-5に向けて少なくとも欧米では英知が結集されつつあるようである。そこでこのたび彼から送ってもらった4編の論文をもとに、このテーマで少しまとめてみたい。何回続くかわからないが、私が書くことのほとんどが、ドクター・シュピーゲルの受け売りと思っていただきたい。
Editorial: Dissociation in the DSM-5 Journal of Trauma and Dissociation 11-261-265, 2010 を読んでみる。この論文は、DSM-5野発刊を3年前にしてかかれているので、これからかなり変更が合ったことになる。しかしここでシュピーゲル医師が書いていることが、議論の流れを知る上で興味深い。解離性障害はいつの時代になっても、なかなか臨床家から受け入れられないというところがあると述べている。その上でDSM-5 においては、解離性障害は、しっかり掲載され、しかも「トラウマ関連障害」として、適応障害、ASD,PTSDと解離性障害を含むことを考えているという。ちなみに私の知る限りでは、結局解離性障害は、「トラウマ関連障害」には組み込まれなかった。しかしそれでもこの種の議論があったことを知ることは貴重である。
ちなみにトラウマ関連障害については、おそらくこのカテゴリー自体が、本来の、記述中心で因果論を配するというDSMの精神からの回帰と言うことはいえるであろう。
ではどうして解離性障害が「トラウマ関連障害」にはいらなかったかについては、やはり解離性障害の診断基準のどこにも、トラウマの既往ということが歌われていないという点は大きいと言える。ただしこれも最終的には没になったとはいえ、DSMPTSDの「解離タイプ」を組み込むというアイデアもあったのである。
ちなみにDSM-5で解離性障害についてどのような診断基準上の変化があったかについては、大体次のようになっている。
いわゆる「非現実体験」を離人体験からわけることになった。すなわちこれまでの「離人性障害depersonalization disorder」の代わりに、 「離人性・非現実体験障害(仮邦訳)depersonalization/derealization disorder」となった。
いわゆる「解離性遁走dissociative fugue」が、これまでのような独立した診断ではなく、「解離性健忘dissociative amnesia」の一種、ということになった。
いわゆる「解離性同一性障害」の診断基準が少しいじられた。特に人格の交代のみならず、人格の憑依possession もそれに入れることになった。また人格の交代が、自分で、または他人の観察により報告されること、となった。また記憶のギャップは、単に外傷的なことだけでなく、日常的なことにも起きることを認めた。
いずれも専門的なことであり、余り従来と変わらない、ということである。

2013年3月30日土曜日

精神分析と家族療法(13)


そこで私が読んだのは、Psychoanalytic Ideas and Systemic Family Therapy: Revisiting the Question ‘Why Bother?’ (Carmel Flaskas) ここでは構造主義家族療法は、1960年代にはじまり、いかに精神分析とは異なるか、という議論から出発したが、最近、特にこの15年は、精神分析への歩み寄りが起きているといいう。本来精神分析への批判は、それが個人の病理に焦点を当てすぎたことに向けられることが多い。一方家族の構成員の間の関係を知る家族療法は、むしろ最近の関係主義的な精神分析と似ていると考えられる、というのが私の感想だ。
この論文を読んで一つ印象深かった部分がある。それは臨床の実践においては、理論の相違はあまり関係ない、と言うことだ。これは全くその通りであり、しかもこの実践とは、私がこれまでのブログで「面談」と称していたものと同じようなものなのだ。確かに「面談」は実践そのものであり、そこに理論的な差異はあまり登場しないのであった。そこでそれをもとに少し書き直した。

精神分析と家族療法における「中立性と現実」
私は精神分析のトレーニングはいちおう経ているが、自分の立場はかなり自由な立場であると考えている。(もうちょっと言えば “unconventional”ということである。)しかしそれでも私なりに分析的にやっているつもりなのだ。それでは私にとっての分析的、とは、何か? それは治療者が中立的な立場を保つことである。そしてその中立性とは、転移、逆転移の間断なき検討により得られるものと考える。
他方、私は家族療法家ではないが、治療場面で家族には日常的に出会っている。そして時には自分のかかわりが家族療法的であると感じることも少なくないのだが、精神分析的スタンスとある種の共通性を感じることが少なくないのでそれについて論じたい。結論から言えば、家族とかかわる際も、一種の中立性が問われるからである。
さて中立性という観点からは、私は個人とかかわる際も、家族とかかわる際も特にスタンスや依拠する理論を大きく変えているという自覚はない。というよりは同じ個人療法でも、認知療法を行なうときと、精神分析とで、あまり根底にある考え方は変っていないような気がする。そしてそこにあるのは、次のような考えである。
実際の臨床実践 clinical practice においては、理論的な相違はあまり問題とならない。それはおそらく患者の側が特に治療者がよって立つところの治療方針を指定してくることが普通は起きないからである。「私は人とうまく話せません。森田療法で直していただけますか?」とは普通はならない。(ただし最近ではネットで検索して、治療法を指定していらっしゃる方も増えてきているのも確かだ。)私は臨床実践とは高度のスキル、個々の治療技法 skill を超えためた「メタスキル」が要求される場面であると考える。そこではそれぞれの理論は必要に応じて用いられるものであると思う。あるスキルを用いないことを判断するのは、そのスキルを越えた力と考えるべきであろう。他方で患者の要求するものは、決め付けられないこと、共感して欲しいこと、そして家族がよりよく機能するようなアドバイスをほしいと言うことであり、それをかなえてくれるのであれば、どのような技法でもいいのだ(技法を用いなくてもいい、とも言える)。

ここで私がそのような考えにいたったいくつかのビニエットをあげたい。
ケースA
<削除> 
 私はこのような時、いろいろなことを心で思ったり、実際に言ったりしている。
1718くらいの子供って、本当に何も言わないんですよね。(私の一人息子も、本当になにも言わないんだから。」あるいは「本当にそのくらいのときの子供って、もう親から取ることしか考えないですよね。親をモノ扱いする・・・・」と言いながら、実は自分の1718歳のころを思い出している。「自分も全くそうだった。親には大事なことはむしろ言わないでおこうとした。じゃないと大変なことになる、とでも言わんばかりに。もちろん親不孝だった。親の都合は考えなかった。でも、今となってはそのころ親にそれを我慢してもらってよかったと思う・・・・・」このせりふの大部分は言葉には出さない。雰囲気だけである。そして気持ちはモノ扱いされた親が「まあ、しょうがないか・・・」と苦笑している姿である。また「父親は何もしてくれないんです。」に対しては、私の十八番を出す。「そうですよ。男はどうしようもないです。」ここら辺は私が男であるという特権から言えることであるし、父親も私を本当ににらみつけることはない。それは私が「私もそのひとりです。」と目で言っているからである。
ということで私は家族の話を聞いていて、どの立場もそれなりにわかる、ということになる。その時はおそらくそれぞれの家族から飛んでくるであろう転移の対策も考えているのだ。「どうせウチの旦那みたいな考えなんでしょう?」「どうせウチのお父さんみたいなことしか思いつかないんでしょう?」「先生はそうやって一人だけええカッコしているんじゃないんですか?以前に相談に行ったどこかのカウンセラーとそっくりじゃないですか。」
私がジョイニングをし、家族をシステムとして扱いつつ、ここの構成メンバーからの転移に敏感になるのはこういうときであり、そこに分析と家族療法のバウンダリーは感じないのである。私はこのような治療を行なっているときに、家族全体を扱っているか、ここの構成員を扱っているか、という区別を付けることができない。ある意味では療法を同時に扱っていると言えるのではないかと思う。
さて私はこのようなとき、自分の位置が、家族のそれぞれから離れて、なんとなく空中に浮かんでいるようなイメージを持つ。よく見えないけれど、それだけいろいろな感じ方、転移を寄せ付けるようなところがある。よくわからない不思議な存在。何を考えているのかつかめないが、それなりに判ってもらっている気もする。


結局必要とされるのは技法ではなくメタ技法である

メタスキルという概念は、スピリチュアリズムの世界ではよく用いられる概念である。もともとはエイミー・ミンデルの概念であり、彼女はプロセス指向心理学(POP)の創始者であるアーノルド・ミンデルの奥様ということである。メタスキルという名前の通り、それはスキルを超えた「心理療法家・セラピストとしての『姿勢』」であり、それをエイミーが夫のアーノルドの治療姿勢をモデルとしてまとめたものである。エイミーによれば、メタスキルとは自発的に自然に発揮されるものであり、それを意識化し、テクニックと結びつけることで非常に大きな力を発揮するという。家族療法の最中にあるセラピストは、それこそいつ氏捨てミックなし店を発揮し、いつ転移を重んじたらいいかをマニュアルどおりに判断しているわけではない。当意即妙に行なうしかない。家族療法も個人療法もある意味ではいつも「待ったなし」なのだ。






2013年3月29日金曜日

精神分析と家族療法(12)



ここまでのまとめ

 そろそろこのシリーズに、一つの区切りをつけなくてはならない。このままではあまりに離散的だ。これまでの私の主張をまとめるならば、次のようになる。家族にかかわる治療者は、個々の構成メンバーの話を聞いてそれぞれの言い分を理解することで、家族で生じている問題について、誰のどのような言動や性格が問題の原因であり、なにが引き金になっているかが「見えなく」なっていく。ただしそれは家族というシステムの複雑さが理解され、それぞれのメンバーの関係性が重層的であり、そこで生じていることに単純な因果関係を見出すことが困難になるということでもある。全体が漠然として雲をつかむようだ、というのではなく、詳細が明らかになってきて、その複雑さに呆然とする、あるいは魅了されるという意味である。
ここで補足的に言えば、これは「自分自身が見えない」という感覚と似ている。私たちは自分たち自身が一番見えない。時には自分の顔が分からなくて、鏡で確認する。何度も鏡を見るというのはそういうことだ。集合写真を撮っても、できた写真を見てみると、ほかの人はそれらしい顔をしているのに、自分の顔だけは「自分らしくない(本当はもっといい、または悪い、こんなはずではない)」などと思ってしまう。
自分に問うてみるといいだろう。自分はどういう人間か。自分は幸せか。それとも不幸か。自分はいい父親や母親で、いい夫や妻だろうか?いい子供だろうか?正直な人間なのか、裏表があるのか?この世に生きていていいのだろうか?・・・・・・
それらの答えは日々異なるし、同時にいくつもの正解があるように思える。人に非難されると、自分がとんでもない人間のように思えてくる。だからセラピストの一言が助けになるのだ。自分はいい息子だったか親不孝だったかは、それにまつわる思い出が次から次へと出て来て、どれもが少しずつ異なった答えに導く。それでもある意味では自分をわかっている部分があり、自分の中で動かない部分を実感しているから比較的安定して生きているのである。家族を、あるいはシステムを理解するということは、そのような意味で分からなくなることである。
これは家族療法では、ミニューチンらの提唱する構造派家族療法のいわゆる「ジョイニング(joinning)」におおむね該当すると考えていいだろう。そして家族の全体を理解する為に、その中に分け入り、それぞれの立場を聞き取るという姿勢は、いわゆる関与しながらの観察と言っていいのであろう。しかし私はジョイニングをやっています、と宣言すると専門の家族療法家に怒られてしまうから、それは控える。私はあくまでもミニューチンと一緒に写真をとってもらったというだけである。(私はよほど自慢したいらしい。でもあの写真、ここ数年見かけていないなあ。)
と、ジョイニングまでは良いが、その後の治療方針は「自然流」で行くしかない。治療者がさらに家族を知る上で自然と発せられる質問は、運が良ければ治療効果を持つ。それはマイルールに縛られている自分の頭には発想としてわかない、しかしよりリアルな視点を提供するかもしれないからだ。それにより、家族の構成員も、お互いのことがわからなくなっていく。娘にとってはあれほど横暴で勝手な、軽蔑すべき人間に思えていた父親が、ただのおじさんに見えてくる。「この人、いったいなんなの?」ふと父親に「結局あたしにメンツをつぶされるのがこわいの?」と尋ねると、治療画面でセラピストの前で正直モードにある父親なら「うん、実はそうなんだ…」となるかもしれない。こうして娘も父親のことを父親と見えなくなっていったらシメタものだ。しかし普通はそうは簡単にはならない。普通の顔を示した父親も、たいていはセッションが終わって日常生活に戻れば、元のこわい父親の顔を取り戻すのである。

治療方針はリアリズムに裏打ちされなくてはならない

実は私は治療、ということをあまり信用していない。そんなに簡単に人は良くなっていかないのである。私たち(少なくとも私)はそんな特別なパワーを持ってはいない。治療する側は「治療してます」と思いたいし、受けている側も「治療を受けている」と思いたいのだろう。その意味では治療とは一種の儀式のようなところがある。お金を払って、アポイントメントを取って、白衣を着た治療者の前に座ってする「面談」。時間が来たら終わって会計を済ます。最後に薬などが出てきたら、ますますそれらしくなる。でも心理士さんなどに、「では患者さんの診察をお願いします。」とか患者さんに「前回の診察の時に、先生が…・」などというとき、恥ずかしくなる。診察に値することを自分はしているのだろうか。ここだけの話であるが、どうも自信がない。
それでも治療の意義を否定するわけではない。一応治療 treatment という呼び方もいいだろう。ただ治療といっても治療者側が積極的な手段を用いるのとは裏腹に、あるいはそれと並行して、患者さんたちは自分たちの自己治癒力を発揮している。治療者は時々その役になっている、という程度にすぎないのだ。
家族療法において、治療者がそこの問題に一緒に入り込んで、保護色のようになって見えなくなるプロセス。そこから出てくる「素朴な反応」に基づく問いかけが、時には家族にとって役に立つ、という文脈もそこにはまる。治療者の何をピックアップし、何を役立ててくれるかは、実は患者の側にかかっている。治療者は使おうと思えば使えるような資源を提供しているにすぎないのだ。実はこの見方は治療者が自分たちの仕事を卑下したり脱価値化するということとは違う。これがリアリズム(現実主義)というわけだ。
全く違う話題だが・・・・。黒田氏が日銀総裁になり、物価上昇2%の目標を打ち出した。それに対して麻生財務相は「そんなに簡単にいかないよ」とか言っている。でももともと経済って、暗中模索で、それこそ蓋然的、偶発的、予想不可能なものの典型ではないか?人の心とどっこいどっこいなのである。アベノミクスだって、そもそもアメリカでの株価上昇と連動してたまたまうまくいっているように見えるだけじゃないのか?
経済政策はそもそもリスクをはらんだものであり、この政策は、〇〇という効果が期待されるが、××というリスクもあります。私はそれを考えたうえで、この政策を提案いたします。自信はありませんが・・・・。
これはリアリズムである。もちろん国民はこれには納得しない。もっと堂々と自信を持って主張しないと、国民はだれも支持してくれない。
家族療法も、あるいは治療法一般がそういうところがある。「これが治療です。」と打ち出したい。そうでないと医者も患者も納得しない。でも本当はそれが有効かどうかはわからない、というリアリズムを心の中ではもっていたいと思うのである。
現実はわからない、治療は有効かわからない、という問題発言も、実はその立場からのものである。・・・・
ということで次は少し論文でも読んでみるか・・・・・。

2013年3月28日木曜日

精神分析と家族療法(11)

 本題に戻る。昨日のブログの「書きながら少し考えが進んでいる気がする。」といったあたりだ。
分からなくなることが分かることである
 家族療法の治療者(相変わらず、「家族療法家」と呼ばない。私がその中に入れないからだ。)は家族に起きている問題を知ることで、「ここが問題なんだ」というよりは、「こんなに複雑なんだ。」「ますますわからなくなってきたぞ」という体験を持つことかもしれない。これはもちろん個人療法にも言えることだ。最初は「結局こんなことね…」と思っていたことが分からなくなる。しかし本当に混乱してしまわない限りは、それでいいのだ。それが「分かる」ことに一歩近づくことにもなるのだから。
 先ほどの家族の例である。治療者は父親、母親、娘の言い分を聞いているうちに、それぞれの立場や気持ちがわかるだろう。家族で起きていることに「納得」し「さもありなん」と思うわけだ。父親のことを最初は暴君で身勝手な人間と思っていたのに、話を聞いてみると、そうなる事情も納得がいく。彼だって辛い人生を送ってきたんだ。人に怒鳴られて卑屈な思いをしたこともある。子供などにバカにされてたまるか。男性の治療者も「自分だってこの状況だったらこうなるかもしれない」、などと考える。同じことは、母親の話を聞いても、娘の気持ちを聞いても思う。それぞれに同一化することで、それぞれの言い分に一理も二理もあることに気が付く。実は治療者としてはこれが一つの出発点なのだ。
 家族の言い分をそれぞれわかるということは、家族の中で起きていることを、ある意味で見えにくくすることだ。つまり「彼が問題人物だ」と決めつけることが出来なくなるからである。どこに問題の原因を特定することもできない。それぞれの人生が(これまでの話とつなげると、それぞれが持ち込むマイルールも含めて)がんじがらめに絡み合っているのが家族である。
 そしてわからなくなった状態から療法家の心の中に何も生まれないのであれば、おそらく「話を聞く」以上の治療は進められない。傾聴して終わり、ということだ。もちろんそれだけでもいい、という場合もある。実際多くの面談が来談者の話を聞き共感を与えるだけで終わっていても、来談者の多くが面談に訪れるのは、ここの段階ですでに治療的な意味があるということだろう。
 さてこのわからなさが、精神の混乱状態と違うのは、おそらくこのわからなさは、むしろ精神的な安定へと向かうという点であろう。(ここら辺は読んでいる人も何のことかわからないだろう。講演などでこんなことを話したら、聴衆は居眠りをし始めるのである。)いつか田口ランディが書いていた。物語を読み終わった時に(人って、人生って)なんて不思議なんだろう。わからないんだろう、ジーン・・・という感動を覚えるのがいい小説だといっていた。
 健全な分からなさは、質問にあふれているということでもある。質問を投げかけることで、詳細をどんどん知ることが出来るからだ。そうすれば詳細がさらに明らかになり、さらに「人ってわからない」となる。しかしそれは基本的に快感である。それに比べて混乱状態は、「何がわからないのかわからない」という状態である。これは一言も発することが出来ない、精神的にがんじがらめの状態である。ここで例の「素朴な反応」ということも少しは意味を持ってくるかもしれない。
 つまりこういうことだ。家族のことをある程度わかると、わからなくなる。ポジティブな意味で。ただしそれ以降に生まれる素朴な反応や質問は、おそらく治療的な意味を持ち始めるのだ。
 この家族の話に戻ろう。わからなくなり始めた治療者はいろいろと素朴な反応をする。「娘さんは食事の時も気にするほどケータイが大事、というわけなんだ。私が子供の頃、ケータイなんてなかったしなあ。うちの息子もさすがにそこまでではないなあ。」「お父さんは、でもそんなに大きな声で娘さんを叱るだな。私にはそんなことはできないなあ。神さんも怖いし。」「お母さんはそこで、でも呟くという感じなんだ。はっきり言わないんだ。うちでははっきり言われるなあ。」などなど。(こうやって書いてみると、治療者はほかの家族との比較というよりは自分のうちとの比較をしている。案外そんなものなのである。というよりいざとなると最終的には自分自身の体験が参照枠になるというのは、結局は自分自身をどう振り返るかということであり、それは個人療法にも家族療法にも決定的になるというべきか。
 それはともかく、治療者はもっとわかりたくて、いろいろ素朴な質問をする。ケータイ世代を過ごさなかった治療者はこんなことを娘さんに聞いてみる。「ところでおかしな質問かもしれないけれど・・・・。どうしてケータイって食事の時間までチェックするほどに大事なの?」父親には、「もし娘さんに注意しても、ケータイをいじり続けるとしたら、どうなっちゃうんでしょうか・・・・」母親には、「小声でさえ、ご主人にそんなこというの、怖くないんですか?」
以上は単なる例であり、いくらでも質問はありうる。そしておそらくそれぞれの質問が、それぞれのメンバーにいろいろなことを考えさせるはずである。そしてその結果として「そうだよな。確かに言われてみれば・・・・。」と感じさせる分だけ、家族は変っていくのである。

2013年3月27日水曜日

精神分析と家族療法(10)

   書きながら少し考えが進んでいる気がする。家族療法とは何かという問題は、結局「認知療法との語らい」でも登場した例の「面談」の話に近づいていくのである。個人精神療法も、集団療法も、家族療法も、結局は人間がやること。そこに特別な技法とかはあまり考えない方がいい。そんなことを言ったら、集団療法学会や家族療法学会の偉い先生方に叱られるかもしれないが、例えばグループの一員であること、家族の一員であることは、実は日常的に起きている。私たちはそれを専門的に扱う以前から、その中に投げ込まれているのだ。だから結局こういう結論に近づいていくのである。
 日常的に起きないことなら、そこにある種の技術が成立する。例えば日常生活では誰かに薬を処方することなどありはしないから、それを行うためには薬物療法の知識や技術を一から学ばなくてはならない。しかしたとえばカップルセラピーなら、その治療者がうちに帰れば夫婦という単位の中に組み込まれてしまっている。またカップルセラピーのカの字も知らない人が、夫婦円満にやれたりしている。しかもその人がカップルセラピーのオーソリティなどよりはるかに立派な家庭人であったりする。そこが悩ましい問題でもあり、面白くもあるのだ。
 個人療法もグループも、家族も、私たちが日常的にそこでの活動に携わっているような活動の中から、治療的な要素を抽出して一つの療法にまで純化するというプロセスと考えるべきである。決して特別な療法がどこかで「考案」され「発明」されて上から降ってくるというわけではない。もしそのようなことがあればそれは大発見としてもてはやされることになるが、おそらくその効果は持続的ではないし、そのための状況設定も難しい。精神分析の盛衰にもそのようなところがあった。(ここら辺の話、例えば精神分析でフロイトが発見したことは、過去の文豪たちがその作品の中でとうの昔に見出して論じてきたのだ、というたぐいの話と少しだけ似ている。)ということで私にとっては家族療法も、治療者の持つ自然で「素朴な感想」をいかに用いるか、という話になってしまうわけである。

 他人から言われただけで変わる
 先に進む前にこの問題についても考えてみたい。どうして人は配偶者や家族から言われても耳に入らないことを、第三者から言われると大きな影響が生まれるのだろうか。これは家族療法の治療者の声がどのように響くかを考える際に重要である。
 先ほどの家族が面接に訪れることを考える。父親と娘のケータイをめぐるバトルは面接室でも起きるとしよう。娘に対するお父さんの話し方には権威主事的で威圧的なところがある。そこで治療者は言ってみる。「それにしてもお父さん、娘さんの話し方には、ずいぶん力がこもってらっしゃいますね。」(治療者としてはこんな言い方を選ぶのだ。)
 実は父親は家族から「お父さんはすぐ大きな声を出す」くらいのことはしょっちゅう言われている。彼自身も職場でも時々声を荒げることが起きていることを知っている。自分の弱点かもしれない、くらいの意識はあるが、やめる気にならない。ところが治療者に言われると「なるほど、そうかもしれない。気をつけなきゃ」となる可能性がある。
 私はこの一つの可能性として、その治療者声がそれだけ中立的であると感じられるという要素が大きいのではないかと思う。もちろん治療者の声がたまたま中立的に聞こえた場合の話だ。実際は治療者の発言は、かえって中立的に聞こえない可能性もある。「どうせうちのカミさんと結託しているんだろう」とか「同じ男だから夫の方を持ってんじゃないの」とか「どうせ大人の言うことなんか皆同じよ。」と思われてしまえば、ちっとも中立的に響かず、かえって歪曲されて受け取られる可能性もある。
 しかし仮に治療者の声が家族の外側からくる、バイアスの少ない中立的な見方に聞こえるとしても、それは父親の心にはまだ響かない可能性がある。それが正しい声、真実を突いている声に聞こえることが本質だ。そのために「中立的に聞こえること」は重要な要素となりうる、というだけなのである。
 ではどのような時に治療者の声は中立的で、正しく、本当らしく聞こえるのか?ここにはいろいろな要素が絡むであろう。父親がいつも心のどこかで感じつつ、気にしていたことに合致していた場合?たぶん。治療者のことを父親がひそかに心服していた場合?これもあるだろう。父親がその治療者にいつも「わかってもらえている」、という感覚を持てているから?これもありだ。しかしこれ以外にもそこには様々な要素があり、また偶発的な要素もある。何がヒットするかはわからない、という例のヤツだ。
ここで偶発的な要素と言ったが、患者さんは実にいろいろな声に左右されるということを私は経験上知っている。その声の主は、別に信頼している人でも、わかってもらっていると感じている人でなくても必ずしもないのである。これまで薬を飲んで調子が良かった人が、突然薬をやめてしまう。その理由を尋ねると、意外な話を聞くことが多い。「教会で牧師さんに、薬はやめた方がいいといわれたから」というのはまだいい。「近所のおばさんが、薬は体にとって毒だといっていた」とか「ネットで薬は怖いと書いてあったから」ということもある。これまで2年間医師のもとに通い、それなりの信頼関係が出来て、薬の効果が見えているにもかかわらず、人はどこからか「天啓」を受けてしまう。それを治療者は、あるいは自分も含めて予想できない場合があるのだ。皆さんの周囲にもいないだろうか?これまで謹厳実直で家庭思いだった人が、なぜか怪しげな人に洗脳されてしまう人が。

2013年3月26日火曜日

精神分析と家族療法(9)

  家族と接する治療者の役割は、おそらくそこで行われているやり取りを聞き、なるべく良質な、「素朴な反応」を提供することであろう。マイルールはもともとかなり極端なものである可能性があり、他の人にはすぐには了解してもらえない場合が多い。しかし家族で支配的な人のそれがファミリールールとして格上げされ、定着していると、他の家族の構成員はなかなかそれを変えるのが難しいものだ。治療者はそれを外側から見て、なるべく素朴な印象をコメントすることになる。それを聞いた家族は、たとえば「そうか、やっぱりうちのやり方って、ヘンだと思っていいんだ…」とか「これってやっぱりアリなんだ」となる。この外からの視点の注入が鍵なのである。
  ただし治療者が「へえ、食事中にケータイは禁止、ですか? いいじゃないですか。」とか逆に「いっさいケータイに触らない、というのはちょっと厳しいですね。」などと言う事は、たとえそれが治療者の「素朴な反応」だとしても良質なものとはいえない。すぐさま父親、ないしは母親に加担してしまうことになるからだ。葛藤状況にある家族のうちの誰かひとりに味方をするのは、治療的な介入の本来的な目的ではない。よほどその家族で起きていることが非常識だったり、外傷的だったりしない限りは、そのような反応は心の内に留めておくべきであろう。そのかわりそこで起きている状況そのものを観察し、言及することになる。
「なるほど、それをお母さんに呟かれるとお父さんとしてはつらいわけだ・・・」「お母さんのその独り言には、複雑な気持ちがこもっている感じですね。」「娘さんの溜息を言葉にすると、どんな感じかな。」
  これらの問いかけで、家族がこれまで言葉に出来ないでいたファミリールールに対する気持ちを語れるようにする。その行方を治療者はとりあえずは見守ることになる。
  これを書きながら思うのだが、私は家族療法家が家族の問題を一挙に解決するというような夢をあまり抱いていない。それは個人療法家が患者の問題を一挙に解決できないのと同じなのだ。その代わりに家族の構成員に「あれ、そんな見方もあるんだ」「そんなことを考えたこともなかった」というような視点の変換が少しでも生まれるのであれば、その分だけ家族のダイナミクスを動かす力が発揮されると思う。でもそのために必要なのは家族で起きていることをひとことで言い当てることでも知的な解釈を与えることでもないだろう。その代わりに良質な「素朴な反応」の提供ということになる。
  この点も個人療法と同じなのだが、治療者のコメントのうちの何が、家族の構成員にとって「そうか、その見方もあるんだ」という体験になるかは、簡単には予想が出来ない。それが実際に起きて初めてわかるというところがある。それにひとりの構成員の気づきは、他の構成員にとっては何も意味を持たなかったりする。だから治療者は素朴な感じ方を、あまり過大な期待を抱くことなく提供していくことになる。どれかが何かを(望むべくはよい方向に)動かすことをほんの少しだけ期待しながら。
  このように書くと「家族療法にはさまざまな戦略や技法があるのであり、家族療法に門外漢の癖に何を言うか!」と言われそうだ。確かにミニューチンの家族のビデオなどを見ると、一セッションで最初はいがみ合っていた家族が最後にはハグをし合って涙を流す、などということも起きる。しかしそれには、オーソリティである彼自身が一回限りで劇的なセッションを作り上げたというセレモニアルな意味も含まれる、ということを、確かミニューチン自身が言っていた。なかなか劇的なセッションというのは生まれないものである。
  ここであえて言わせてもらえば、家族にかかわる治療者に必要なのは経験に裏打ちされた常識である、と思う。その経験とはさまざまな家族とかかわってきたという意味もあり、また自分の家族と向き合ってきたということでもあるだろう。そうなるとその家族の構成員のどの立場も、それなりに汲み取れるようになる。その上で家族のやり取りを見て持つ素朴な感想は、誰に特に加担をするということにもならず、おそらく家族の構成員にとっても「そのような見方のほうがわかりやすくて納得がいく」という印象を与えることで構成員に採用されやすい。とすればそれなりの家族の葛藤を体験した、ある程度年齢を摘んだ人でないと家族療法は難しいのであろう。
  先ほどの家族の例では、食事の際のケータイについて、父親と母親が異なる考えを持ち、特に夫(父親)の身勝手さに不満を持つ妻母親がファミリールールにも従えないという問題が本質にあるのであろう。治療者はその際の父親の側に立った情けなさやふがいなさ、母親の側に立ったイマイマしさ、娘の側に立った両親への期待と失望をいずれも感じることが出来て初めて中立的な「素朴な反応」を提供できる。
書きながら少し考えが進んでいる気がする。家族療法とは、・・・(つづく)

2013年3月25日月曜日

精神分析と家族療法(8)



 ということで家族療法だが、私の中では家族療法が「マイブーム」だった時期がある。1991年からの23年である。メニンガー・クリニックのレジデントの3年目は、家族療法の講義が通年であった。ミニューチン、ボーエン、ミラノ学派など、一通りの理論を教わった。そしてこの世界もかなり「熱い」ことを知ったのである。アメリカでは家族療法はソーシャルワーカーの仕事である。メニンガーの精神科レジデントの為の家族療法の講義は全てソーシャルワーカーたちが担当していたが、彼らは家族療法というフィールドを任せられて喜々としているという印象を持った。Psychotherapy Networkerという家族療法家向け(今はどうかわからない)の雑誌に出会ったのもそのころで得ある。

車で数時間の距離にある、ネブラスカ州のオマハでサルバドール・ミニューチンがワークショップを開いた時は、当時メニンガーに留学中だった心理士の安村直己さんと一緒に参加し、ミニューチン大先生と記念写真を撮ったほどである。(知らない人には全く意味がないかもしれないが。)
しかし私は家族療法を専門にやるということは全くない。基本的には門外漢であるということをお断りした上での話しだが、精神科医としての治療の中で家族との面談は非常に多い。外来の患者にはしばしば家族が付き添う。家族同伴での面談は、おそらく臨床の3,4割強を占めるだろう。一日30人の外来では、10人が両親か母親か配偶者と一緒に診察室を訪れる。私は基本的には彼らにも一緒に入ってもらう(もちろん患者本人の了解の上で、である)これは私なりの家族療法、ないしは家族プロセスである。
  私はそのような場合に自分が話すことで家族に何らかの有益な影響を与えていると実感することが、ごく偶にだがある。それはどのような意味なのかを少し考える。そこですでに書いたマイルールの話が再び関係してくる。

マイルールの絡み合いを外から見る治療者

それぞれの家族に、ある種のファミリールールが出来ているだろう。それはその家族で毎日繰り返される日常が従うべきルールである。これは結局は誰かのマイルールが家族のルールに格上げされているということが多いだろう。たとえば「ウチでは食事のときはケータイはいじらない」というルールがあるとすれば、それは父親がそう考えるから家族にも押し付けているという可能性がある。母親は「メールを時々チェックするくらいいいじゃないの」とか思っていても、なんとなく夫の言うことに逆らえない、とか。
ただし家族の中での葛藤が生じているときは、このファミリールールがあいまいになり、それぞれのマイルールが衝突しあうと言うことが起きているはずだ。娘が食事中にケータイをちょっといじったのを見逃さなかった父親が大声を出す。その時に母親がつぶやく様に「自分だって勝手なことしてるくせに、子供にばかり厳しいんだから・・・・」と言う。父親はそれを言われては形無しだから「おい、今なんと言ったんだ!」となる。食卓にイヤーな空気が流れる。娘のため息が漏れる。(今適当に作ったシナリオだが、書いていて少しコワくなる。)そして数日後、治療者はそのエピソードを聞くことになるのだ。

2013年3月24日日曜日

精神分析と家族療法(7)

他人のマイルールに助かることもある
   家族療法についてもう少し真面目に書くが、その前に。マイルールを突きつけられることは、心地よいことでもあることについて。
   たとえば私のクロセットを開けてみると、灰色に細い青と茶の線が入った肌触りの良いジャケットがかかっている。神さんが「これを着なさい」と御徒町の多慶屋あたりで買ってきたものだ。結構気に入っているので着ているが、どうしてこれがいいのかよくわからない。いわば神さんのマイルールがここに入ってきている。私はそれに不満かと言えば特にそうではない。ジャッケットとして何を着るかは、私には「どうでもいい」部類のことだからだ。というよりむしろ神さんのマイルールに「助かっている」のである。感謝しているといってもいい。言われた通り着ていれば一応無難で恥をかかないことがわかっているからである。
  人には全くの苦手、全然わからないという分野がいくらでもある。私は特にそれがひどく、料理やファッションはわからない。(髪の毛は自分で鋏を入れているので、男性の髪型が少し気になる程度である。)するとそこはことごとく他人の受け売りということになる。こだわりがないから同居人のマイルールは法律のように受け入れる。ジャケットについてコメントすることは、自分が知らない領域について専門家に口出しをするようなものだから、畏れ多くてできない。(ただどうしても好きになれない配色のものを着るように言われても、そこは勘弁してもらっている。)
   実は夫婦の間では、このマイルールの相補性があるから、何とかなっているということが少なくない。たとえば私がリビングのカーテンの色にこだわる人間だとしよう。あるいはソファの色や配置でもいい。そのレベルで神さんといちいち喧嘩をするとしたら大変なことだ。インテリアデザイナーのカップルが新居での新婚生活を開始することを想像していただきたい。トイレの便座カバー一つから意見が対立することになるかもしれないのだ。
  一応うちの中で、私のマイルールが通っている部分がある。それは私の机の上、本棚の中だ。そこは治外法権的に認めてもらっている。ここまで管理されたらシンでしまうだろう。それを認めてもらっているので何とかなる。
  パリに暮らしているころ、そこの小さな部屋で新婚生活と留学を同時に始めた若いカップルがいた。二人ともとても素敵な男女で、それぞれを好きであったが、6畳一間で二人暮らしを始めた彼らの苦悩は相当のものだった。何しろ自分の空間を作れない。いつも顔を突き合わせている。マイルールのぶつかり合いはおそらく部屋の隅々まで及んでいる。似たもの通しということもあり、あらゆることに意見が対立していたようだ。
  こんなことを書いているうちに一回分になってしまった。明日こそ、本題に入るつもりだ

2013年3月23日土曜日

精神分析と家族療法(6)



 もちろん通常の夫婦の関係はここまで極端ではない。何年も同棲した挙句の結婚であれば、かなりお互いの本当の姿も見えてきている。するとそれでも結婚に踏み切る場合には、マイルールの棲み分けがある程度出来ることが確認されているからであろう。恋愛の際の「勢いでの結婚」というわけではない、別の力学が働くことになる(孤独の回避、など―後述)。しかしそのためにかえって結婚できなくなるカップルはゴマンといる。

マイルールとマイルールのせめぎあい。結局その夫婦が一緒に添い遂げるための一つの条件は、我慢する、相手に譲る、ということになるのだろうか。わけがわからなくてもとにかく屈するのである。どちらが?基本的には両方が、である。マイルールはお互いに分かり合えないものである、ということはすでに述べた。しかも相手のマイルールを変えるのは至難の業である。だから我慢するしかない。でもわけがわからないものの我慢をさせられていると思うから、腹も立つし、バカバカしくも感じる。そのうち一方が他方に洗脳されることでようやく落ち着くかもしれない。
ひとつ例を挙げよう。結婚して数年になるカップル。夫は食事がすむとすぐ終えた皿から流しに運ぶ。食べ物を落としやすいのは、まだ食事の残りが乾いて皿にこびりつく前の状態だ。だから食べ終わったらすぐ水で流しておく。妻はそれが耐えられない。食事を終えて一休みしたいのにせわしなく席を立つ夫。なぜそんなせせこましい考えを起こすの?食事の後はゆっくりコーヒーでも飲めばいいじゃない。男らしくもない。ほらまた、テレビの前を横切らないでよ。
皿をすぐに流しに運んですっきりしたい夫。そんなことを考えずにゆっくりしたい妻。どうでもいいような例かもしれないが、こんなことが生活のいたるところに起き、一緒に居ることの楽しさを確実に低減させるのである。しかしここで夫が「食事の後はじっとしていてよ。わずらわしい・・・」とかため息をつかれているうちに情けなくなった夫が、「そうだよな・・・」と考え出すと、二人のマイルールはそこで一致する。まあそれを私は洗脳、と呼んだわけだが。そして夫婦間では、この種のマイルール同士の妥協点を多く見出しているものである。(私もこの25年間にずいぶん洗脳され、勉強させてもらった。)ただそれで夫婦間の葛藤は解決するかといえばそうではない。一致できない、洗脳しきれない部分が必ず残るからだ。それもお互いにとって本質的な部分が残る傾向にある。
マイルールというにはあまりにひどいが、夫の飲酒、パチンコ、暴力。休みの日は数枚の万札を持ってふらふらとパチンコ屋に行くという「ルール」をかたくなに遵守する夫をどうやって許容できるだろうか?一方では子供の学費にすら困っているのに。
  
それでも一緒にいる
    夫婦はそれでも一緒にいるとしたら、どのような理由か? それは子供を一緒に育てるという仲間意識を除いたとしたら、やはり寂しさからだろうか? 夫婦は子供が成人して家を出ると同時に離婚するというわけではない。そのような例もあるだろうが、大概は子育てが一段落した後も、いがみ合い、ののしりあい、場合によっては口をきかずに(これが結構つらい)一緒にい続けるのである。それはやはり孤独を回避したいからだろうか?おそらくそうだろう。そして孤独を回避する気持ちは、おそらく男性のほうにより強い傾向がある。男は情が薄いくせに、妻から情をかけられたい。どうしようもない生き物である。昨日インターネットでこんなニュースを拾った。既婚男性に対して、未婚男性は平均余命が10歳近く短いというのである。(たしか70 VS 80歳くらいかな。)奥さんはそんな夫の勝手な要求を呑む。女性のほうから三行り半を突きつけない理由は、彼女たちの側の孤独を回避する傾向もあるが、離婚後の経済的な自立が困難ということもあるだろう。
しかしそれにしても、この駄文は、ぜんぜん家族療法の方向に向いていないな。どうにかしなくてはいけない。

2013年3月22日金曜日

精神分析と家族療法(5)


恋愛はマイルールを無力化するための装置である

昨夜は不思議な夢を見た。久しぶりに「恋愛もの」である。きっとこのところ書いていることと関係していたのだろう。そこで思ったのだが、家族療法の面白さは、私の場合は実は恋愛と関係がある。家族の間の葛藤、特に夫婦の間に関しては、恋愛のプロセスの裏返しというところがあるのだ。家族の面白さは、そこに「遠慮」が不足、ないし欠如していることからくる。というよりは互いの遠慮の仕方にどうしようもないずれが生じる、ということか。劇団ひとりのエピソードの面白さは、そこに示したような会話が、おそらく彼らが恋愛関係に入った時はおよそ考えられないようなものだということである。(まあ、恋愛状態にありながら、ショーもない喧嘩をするカップルもいるか。)
恋愛状態とは実に不思議である。一種の狂気だ。あるいは魔術、くらいにしておこうか。何しろパートナーの脱ぎ捨てた丸まった靴下さえも、いとおしく思えるのである。(結婚したらそのうち不潔に見えるようになるわけだが、これは「正気」に戻っただけである。) その狂気の中で最初の夫婦の絆が結ばれる。これからずっと一緒に居よう、というわけだ。別れるなんてありえない。関係を継続する理由もいらない。相手のことはすべて受け入れる。唯一の例外は、相手が自分以外のほかの誰かと幸せになる、という可能性である。二人は一生懸命巣作りをする。小作りに精を出す。
ここら辺までのプロセスは、お互いのマイルールが抵触しない形で起きる。実に不思議な現象だ。そう、巣作りをするためには、マイルールにこだわるわけにはいかない。いつも一緒に居間で、寝室で過ごすのが楽しい、二人の間に境界などない、という全く別の条件が成立していないと、そんなことはできないはずだ。恋愛とはマイルールを無力化するための装置といってもいい。
さて狂気、じゃない魔術からそのうち覚める(どんなに長くても一年半、というデータがある。) ふと気が付くと、二人はよくわからない赤の他人といることに気が付く。「いったいこの人はなんなんだろう?おかしなルールばかりにこだわって、わけがわからない。」恋愛時代は、「君ほど僕のことを分かってくれる人はいない」「あなたもよ。」とか言っていた二人が、実はお互いに幻を見ていたことに気が付く。そしてふと我に返り、本来一番大事なはずの自分の生活、そのためのマイルールを思い出す。そしてそれを全然理解しようともしない相手との確執が始まる。

2013年3月21日木曜日

精神分析と家族療法(4)


マイルールについて

マイルールという言葉。グーグルで検索しても大したものが出てこない。ということは、私の造語、ということでこのまま使ってもいいか。私が強調したいのは、このマイルールは、基本的には他人には理解不可能、ということなのである。マイルールは、他人にはわかってもらえない、という前提で運用しなくてはならない。また他人のマイルールはわからなくてもいい、ということでもある。ただしわからないからこそ、他人のマイルールは尊重しなくてはならない。マイルールとは、一種の言語のようなものだ。あなたが配偶者に何度言っても通じないことがあるとする。それはそうだ。配偶者は別の言語を使っているからだ。(逆に恋愛関係にある男女は、それぞれ言葉が通じなくてもカップルとして成立する。ただしこれは実際の言語の話。) 同居している二者の関係は、国境を接している二国のようなところがある。それはお互いの近接性を回避することができないからだ。つねにボーダーラインが存在している。そこではマイルールが異なることからくる紛争が起きる。
マイルールはお互いに通じ合わない、といったが、それは生理的な反応が関係しているからである。例えばあなたが男性で、うちに帰った後靴下を脱いで、居間にそのままにしておく。奥さんは、丸まったその靴下を見て、嫌悪感を覚えるかもしれない。そういうものである。マイルールの通じ合わなさには、自己と他者の区別からくる不潔感が関与する。他人が脱いだ、丸まった靴下は汚い。洗面台に落ちている髪の毛は汚い。ただし配偶者のものについてである。それが実は自分のものだと気が付いたときにスイッチが切り替わる。それは親近感のあるもの、ほほえましいものにすらなるのだ。
 ちなみに私は丸まった靴下をほっておくということはない。自分の靴下が汚らしい目で誰かにみられる、ということは耐えられないし、そう思ってみると自分の靴下と分かっていても汚らしく見える。(しかしそれでも相当汚いものをまき散らしているようである。)
靴下に関しては、面白い体験をしたことがある。息子が小さかった頃、彼が脱いだ靴下が丸まってリビングに転がっていた。すると一瞬だがそれを「かわいい」と思ったのである。これって母親が息子に持つ寛容さと似ているのではないか、と思った。ダンナの丸まった靴下は汚い。でも自分の子供の丸まった靴下は…・「かわいい」のである。やはりこれでないと、子育ては無理だ。
 ところで、では息子と母親の同居生活はそれだけ安全に行くのだろうか?なかなかそうはいかない。私の知っているケースでは、息子が暴君になり、母親がそれに従うというパターンになることが多そうである。しかし息子の横暴さにつきあう母親は、どこかで「しょうがないな」と思っているようなニュアンスがある。やはり小さいころの靴下クルクルがかわいかった影響は大きいのだ。親というものは成人した子供を見ても、子供時代の様子をいつでも二重写しできるのだ。

2013年3月20日水曜日

精神分析と家族療法(3)


二者関係の力学

家族と言っても少し漠然としているから、夫婦の単位から考えよう。やはりなんといっても家族の核は夫婦である。最近は日本でも核家族化が進んでいるために、そこに一人の子供が加わるというのがもう普通の形になっている。そこで話は夫婦などの二者関係に戻るのだが、なぜ二人の人間の同居はほとんど常に葛藤を伴うのか。
私の仮説は、そもそも二人の成人が「弱肉強食」の世界に入りかけてしまうから、というものである。人は普通はパーソナルスペースを持っている。そこでは自分のものを自分の好きな通りに置き、好きなように使うスペースだ。職場に自分の机を持っている人は、デスクトップに何を置くかは、ほぼ自由に決めているだろう。ここに写真経て、ここにティッシュ、あそこにペン立て。…一番上の引き出しにはそのほかの文房具類を入れて、二番目には… (私の場合は、すべてゴチャゴチャである。) 自分の置き場所を把握しているから、たぶんホッチキスの針が切れたときはどこを探せばいいかも知っているし、切手の位置も把握している。机を離れる前には、一通りきれいにしておく、などの自分だけの法律が行き届く場所だ。その法律をマイルール、と呼ぼう。
さて二人の同居する空間では、隣の人の机との共用スペースがる。そこではマイルールがぶつかる場所である。そこに紛争が生まれる。ちょうど新幹線で、三人掛けの椅子の両側に人が座っていて、間の席に当分人が来そうにないという感じだ。そこのスペースに、隣の人が自分の週刊誌か何かをポンとおいてあると、「おいおい、そこって私のスペースでもある、ってこと考えてくれてる?」と、少しイラッとするだろう。さて二人の同居状況は、そこでマイルールが交錯し、火花が散る、という事情が常態化していることを意味する。そしてマイルールを持つのが当たり前である以上、狭い空間で共有部分が増えるだけ紛争が起きることは当たり前である。そしてそうそう、もう一つの大事な原則を忘れていた。

「人は互いに相手のマイルールが理解できないのがふつうである。」

マイルールが衝突した際、どちらかが譲るという決まりが成立している関係は、だから問題が生じにくいことになる。一方のマイルールが他方を常に支配する。ある場合には地位で、ある場合は体力の差で、また別の場合は迫力の差で。子供が小さいころは、親のマイルールが子供のマイルールにならざるを得ないし、それに子供あまり疑問を挟まない。上司と部下が一緒に旅行したら、上司の言い分が優先されるから、これもあまり目立ったトラブルはないはずだ。ラブラブのころのカップルは、お互いに相手のマイルールに過剰に自分を合わせようとするから、これもあまりトラブルが起きない。そう、トラブルは両者の力関係が拮抗してマイルール同士の衝突が起きやすくなった場合に生じる。
ここで余談だが、面白いニュースを見つけた。

30年姉妹同然のゾウ、突然ケンカ状態別居へ
北九州市小倉北区の「到津の森公園」で30年以上、姉妹のように育ってきた雌ゾウ「サリー」(推定36歳)と「ラン」(同35歳)が、昨年秋から突然けんかを始め、別々に展示される事態が続いている。仲むつまじさが人気だったが、原因がわからず同公園は頭を悩ませている。
2頭は1979年3月、北九州とスリランカの青年会議所同士が友好関係にあった縁で、動物親善友好大使として同国から寄贈された。ともに親を亡くしたゾウの「孤児院」で育ち、来園時は小さな2頭が寄り添って歩く姿が人気に。成長して約4トンもの大きさになると、サリーが先に餌を受け取るようになったが、鼻を絡ませじゃれ合うなどいつも一緒で「本当の姉妹みたい」と親しまれてきた。
ところが昨年10月、運動場を囲む深さ約2メートルの堀の底に転落したサリーが発見された。堀の手前に電気が通った柵もあり、自分で越えたとは考えられず、ランが落としたと疑わざるを得なかった。
以来、体をぶつけ合う、蹴る、尻尾や鼻をかみ合うなど争いが絶えず、来園者から心配する声も寄せられるように。同公園は昨年12月、「2頭が少し落ち着くまで1頭だけの展示になっています」と看板を設置。来園34年目で初めて交代で1頭だけ展示し、もう1頭はオリに入れる措置を取った。「やや体が大きいサリーの立場が上だったが、最近、体調を崩して痩せたため、ランが形勢逆転を狙ったのだろうか」。ゾウ担当の勝原和博さん(46)は困惑しつつもそう推測する。
20132281536 読売新聞)

つまりこれまでは上司と部下の関係でうまくいっていたカップルがいきなり同列におkれたために起きた不仲、とは言えないだろうか。

2013年3月19日火曜日

精神分析と家族療法(2)


私は家族の間の行き違い、特に夫婦間の行き違いに非常に興味を持っている。最初は少しでも一緒に居たくて結婚した筈なのに、しばらく経ってみると、これ以上のミスコミュニケーションがあっていいものか、と思うほどの心のすれ違いが、しかもほんのわずかの会話の中に込められるようになる。「親しい付き合いは、距離があって初めて成立する」(まあ、「多くの場合」、と付け加えようか)という当たり前のことを改めて考えさせる。
この間「サワコの朝」という番組に「劇団ひとり」が登場し、阿川佐和子相手に、年始早々の夫婦げんかについて話していたのが面白かった。
ひとり:「雪、積もったね。」
(大沢あかねだったと思う):「ねー。」(とおそらく「私が予想したとおりでしょ」と自慢げなトーンで。)
ひとり:「『ねー』じゃなく、『ねー』(ごく普通に肯定する調子。)でしょ。」
妻:ウルサーイ!!(「相槌のうち方ぐらいで説教しないでよ。」というニュアンス。)

わずか数言で、場合によっては一言で生じてしまう夫婦げんか。実に面白い。
ここで交わされるいくつかの短い単語には、夫婦の負の歴史が、凝縮されているのだろう。
もちろん夫婦の間だけではない。親子だってそうだ。ある患者さんが教えてくれた例を少し変えてみる。

娘:「お母さん、やかんのお湯が沸いているわよ。」
母:「じゃ火を消しておいてちょうだい。どうしてそのくらい言われなくてもやってくれないの?私がいま野菜切っているのわかるでしょ?」
娘:「だって・・・。」
母:「またそうやって言い訳をしようとするの?私があなたの年のころは、母親のことはちゃんと手伝って、家事もみんなすすんでやっていたわよ。」
娘:「・・・・・」

私と神さんの間でもいろいろ例があるが、それは書くのは控えよう。
ウーン、面白い。とうにんたちにとってはしんどいが。
  
私は精神分析では「関係精神分析」学派に属している、ということになっている。(てっとり早く、何かの学派に属していることにしてしまうほうが、この世界では過ごしやすいのだ。) 関係学派は具体的な人と人とのやり取りに焦点を当てる。精神分析的には治療者と患者の間の関係性が中心となる。それはそうなのだが、これは結構難しい。シンドいのだ。精神分析では転移関係を扱うことが常識、ないしは王道とされる。あまりにも自分たちのこと過ぎて、too hot to handle なのだ。それに比べて家族で起きていることについては、治療者が客観しできる分だけ扱いやすく、しかも患者の日常生活の過ごしやすさやストレスの度合いに直結しているからだ。
私は療法家が家族の問題を扱うことで関係性がすぐにでも改善されると考えるほどオプティミスティックではない。しかし家族の問題を解決する上である程度の推進力を発揮する。治療的に扱うことで、少しだけ進展する。そしてまた止まるのである。



2013年3月18日月曜日

精神分析と家族療法(1)


ッていきなりナンだ? いや、いきなり天から降って来たようなテーマだ。私もどうもこのテーマを選んだ覚えがない。解離していたのか。でも今月の終わりくらいまでには考えをまとめないと、人に迷惑がかかるような気がするのである。

*   *   *   *   *   *   *   *   *   *

 昔、精神分析のトレーニング中に、仲間が言っていた。
 「ボクは精神分析と何とかは、家には持ち込まないようにしている・・・・」つまり精神分析のトレーニングは家族には関係ないという感じだ。自分の幼少時の出来事についてもっぱら扱うのだから個人的な問題だ、というニュアンスもあったかもしれない。
 しかしそれを聞いて「それってちょっと違うんじゃないか」、と私は思ったのを覚えている。だって家族の一員が精神分析により変わることが、家族に影響を与える、できれば良い方向に、と思うのが自然ではないか。
 精神分析のメッカでもあったメニンガー・クリニックでは、分析家になるということは厳しい修業を積むことなんだという雰囲気があった。夫が精神分析家になるための教育分析を受けている間は、「あなた、外でのお仕事頑張ってね。」という感じだった。いや、そこまで協力的な家族はいなかったかもしれない。何しろ家族が教育分析を受けることは、かなり家計を圧迫するはずだからである。でも家族のキャリアーアップと思い我慢するというところはあっただろう。
 アメリカでは医者どうし、心理士どうしの結婚はよくある。メニンガーでは精神科医や心理士どうしの夫婦が同時に教育分析を受けるという機会があったが、その場合は「夫婦で支え合って、この厳しい時期を乗り越えました。」という感じだった。でもそれを聞いて、私はこれもちょっと違うんじゃないか、と思った。(私は記憶力が悪いが、このエピソードは一回どこかの本に書いたことだけは覚えている。どこに書いたかは忘れた。)だって、精神分析はそれを受けることで家族関係にも貢献すべきものだろう。「うちの旦那(神さんでもいい)は、分析を受けてから穏やかになりました。」という話はアリだと思うが、二人で支え合って教育分析を乗り越えた、は何か本末転倒である。大体教育分析で話す内容のかなりの部分は、実際の家族との関係だったりするはずだ。「神さんにいつもきついことを言われて胸が痛むんです。」という体験を分析家に話した夫が家に帰って、当の神さんに、「いや、今日の教育分析ではしんどい体験を語って来たよ。」「あなた、大変だったのね。お疲れ様。」はやはりオカシイ。