2013年12月20日金曜日

恥から見た自己愛パーソナリティ障害(5)

ということでそろそろ本題に入らなくてはならない。最初に主張したいことを見出しにしよう。
自己愛パーソナリティ障害(以下、NPD)は獲得されるパーソナリティ障害である

この連載の冒頭で示した、「パーソナリティイコール三つ子の魂の延長論」への反論の一種と考えていただきたいし、「シャイな子供が大人になって強面になる」、というここ数日の議論とも関係しているテーマと考えて欲しい。私はパーソナリティ障害(いちいち書くのは大変だから、これからはPDと書こう)の中でNPDはある種の特別な位置を占めると思う。それはそのPDの表れ方が、とても状況依存的だということである。普通PDは三つ子の魂であるとともに、「いつどこでだれといても姿を現すもの」という常識がある。つまりその恒常性がその人の持つパーソナリティの一つの特徴というわけだ。ところがNPDはそれが場所を選んで出てしまうという条件が当てはまらない。だっていかにナルな人間も、上司やかみさんの前でなれるだろうか? 以前にも書いたが、自己愛的な人間は帰って上司の前では極端にへりくだったりするのである。NPDは部下や生徒や患者の前でその本領を発揮する。自分より弱い立場にあると思われる人たちの前で威張り散らすのである。あの小沢さんだって、有権者の前では作り笑いを浮かべて非常に愛想良くなるのである。(ビートたけしが小沢さんと面会をした時の様子をネットで書いているが、その時も溢れんばかりの笑みを持って彼を迎えたという。)もちろん彼の師匠であるカナマル先生などの前では忠実な生徒であったのだろう。
 通常はNPDはそれを発揮できない事情のある人の前では封印するというのはとても重要な性質だが、もう一つNPDが恒常的でないと考える根拠がある。それはNPDの極みのごとく思われる人たちの若い頃は、パーソナリティとしてはかなり違っているのが普通なのだ。NPDの若い頃の姿は皆シャイであった、とは言わない。しかし案外普通の感覚を持っていたり、人に優しかったりする。
 もちろん人は子供時代、あるいは若い頃は周りにいる人間は年上ばかりで、NPDを持っていても発揮できないということはあろう。しかし私の考えはむしろ違う。NPDはそれを発揮できるような環境に置かれることで、おそらく誰もがそれを持つようなシロモノなのだ、というのが私の極論である。