2013年12月17日火曜日

恥から見た自己愛パーソナリティ障害(2)

 日曜日は「仏教心理学会」にディスカッサントとして参加した。マーク・エプシュティーン医師をアメリカから招聘しての講演に対する質問を行うという役回りだった。会自体は非常に有意義であった。11月の森田療法学会とこの仏教心理学会とは、私の中では大きなつながりを持った。会場となった武蔵野大学有明キャンパス。広々とした、都心とは思えないゆったりとした環境にあり、また機会があれば訪れたいと思ったが・・・とにかく風が冷たかった。

 パーソナリティについてもうひとつ驚くことがある。それは先輩か後輩かにより、あるいは年上か年下かにより、その人の印象は全く違ってしまうということだ。例えば上級生は普通は気安く下級生に接することが日本では少ない。中学に入った途端に、上級生が「さん」づけになって戸惑ったことを皆さんは覚えているかもしれない。学生時代を通して、そして仕事を持っても若手といわれた時代を通して、年上ないしは先輩は決して必要以上に打ち解けないのが日本人の傾向である。
 私はこれをアメリカでの体験との比較で言っている。アメリカでは英語が「究極のタメ語」であるために、年上、年下、ないし先輩、後輩ということで態度が変わるということが少なくとも日本社会ほどではない。一、二年先輩でもファーストネームで呼び合うのが普通なのだ。すると人柄というのは、後輩から見るとより「大人っぽく」見え、先輩からは「子供っぽく」映るということになる。
 例えば私の体験では、30歳代の精神科医は概して「幼く、未熟で、子供っぽい」という印象を持つが、医学部を卒業したての頃の30台の精神科医たちは、自分より10年程度のキャリアーを積んでいて、本当に大人に見え、かつ実際に怖かった。とても彼らが同じような人種とは思えないのである。私のこの印象は大げさかもしれないが、パーソナリティを他人に与える印象という視点から考えると、日本人は誰に接しているかによりその見え方を相当に変えているのだ。そしてそれを如実に表しているのが、そこで用いられる言葉遣いの違いなのである。
それとこの問題、自己愛パーソナリティについて論じる際にも出てくる。というのは自己愛パーソナリティは、誰に対しても出るのではなく、自分に対して後輩、年下に出るのが典型的だ。横暴で独善的な典型的な自己愛的係長は、部長の前では飼い犬のような振る舞いになる、というのが普通なのだ。
コワモテは基本的に照れ屋で恥ずかしがり屋である

順を追って話すつもりだったが、いきなり浮かんだこのテーマについて。私は年齢のせいもあり、あまり上に怖い人は少なくなってきている。つまり怖がられている人々が私と同年代になってきているので、彼らの素顔を知ることになるわけだ。これは面白い体験である。しかしそれ以外にも「怖い人って実は~なんだ」ということが職業柄見えてきて面白いと思っている。私の関心は一貫して恥の感情が人の振る舞いや感じ方にどのような影響を与えるかということであり、これは精神科医として仕事をしていて毎日確認していることだが、コワい人って、案外弱い、ということを痛感するようになった。