2013年12月31日火曜日

恥から見た自己愛パーソナリティ障害(16)

もう大晦日だ。私はこれほど長い休みを取ったことは久しぶりである。

ブログの方はマイペース。年末年始とは関係ない。
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ちょっと解説を加えておこうか。1.について。これは風船が膨らむという議論であり、結局NPDは人生の後半になって発達しやすいということだ。何しろ高崎山の猿でさえ年功序列だという。年老いても「長老」として敬愛されるとしたら、年をとれば取るほどエバっていられるということになる。逆に子供でナルになる環境はない、ということか?いや待てよ、子ども同士の間で序列があるな。そう、子供の世界ではそれなりに風船を膨らます子が出てくる。クラスで俺が一番勉強が出来ると思っている子だとか、アタシが一番美人よ、と思っている子だとか。しかしそういう子って、絶対先生の前ではいい子になりはしないか?これは1,2の両方に関係するが、彼らは驚くほど使い分けをするのだ。
 風船は膨らむということについて追加しよう。アメリカの研究で、高校生100万人にアンケートを取ったところ、「自分の指導力は平均以上」と答えた人が70%だったという。もちろんアメリカ文化だからそうであって、日本の場合は違うという説もあるかもしれないが、まあある程度は我が国にも当てはまるとしよう(というより私の自己愛の理論は、別に日本社会について限定的に述べているわけではない。)これは人はほっておけば、自己評価を「盛る」傾向と考えることができる。人は実際より自分をイケていると思いやすいのだ。
どうして風船が膨らむか?それは単純に人が「自分は他人より優れている」という認識を持つことが快感を生むということなのだろう。ではそれが快感でない人はどうだろうか?もちろんそうでもない人がいる。百田尚樹氏の「永遠のゼロ」に出てくる主人公のような人はそうかもしれない。しかし私たちは対人関係の中でそれを磨いていくのである。そして偉そうにすることは圧倒的に「身体的にも楽」なのである。
 例えば私の立場で学生と会うときには、彼らの多くは畏まった態度をとる。(何しろ私はキョージュだから仕方がないのだ。)彼らは椅子に深く腰掛けず、足も組まずに背筋を伸ばす。その話を聞く私といえばリラックスしきって、椅子に体をあずけた姿勢で話を聞く。(言語道断だ!!学生たちよ、ゴメンネ)なんて言ったって、体が楽なのである。
例えばメールを出す時もそうだぞ。私は目上の人に出すメールにもちろん気を遣う。失礼の無いように、「恐縮致します」的な文言を付け加える。それに比べて学生に出すメールは「じゃ、よろしくね。」みたいな感じ。手を抜くのである。態度が偉そう、という時はたいていはこのこの脱力を意味する。昔どこかで、省庁のキャリアーはノン・キャリと話すときは足を机に投げ出して聞くのが「お作法」だと書いてあった。机に足を載せる。アメリカではよくやってたな。ひとりでいるときである。足を体より上にあげるって、キモチよいのだ。安楽椅子にオットマンもついているではないか。

結局何が言いたいか。人の自己愛の風船は、直接身体的な安楽さを伴っていることもあって、膨らんでいくものと考えられる。ということはとても対人的なのだ。自己愛の膨らみはおそらく、その人が今誰といるか、ということにとても影響しているわけだ。