2013年11月6日水曜日

エナクトメントと解離(2)

さてスターンの論文の興味深いところは、ここからである。そもそもエナクトメントとは、事後的にそうとわかる物であり、そこで「あの時は~だった」という形で底に表現されていた自分の無意識的な葛藤を振り返るというプロセスを意味するが、それはそもそも自己の解離を意味しているのだ、というのだ。そう、エナクトメントはそもそも Dissociation and the Multiple Self(p.209) の問題だというのである。たとえばAという行動ないしは言動を行っている時、そこに葛藤を感じていないとする。それを後になって「あれ、Bもありだな。なぜBを選ばなかったのだろう?」と思ったとしたら、Aはエナクトメントであった可能性がある。しかしAの最中に葛藤を感じていなかったわけであるから、ABからは、心の中で別れていた、「解離していた」というわけだ。そして「解離されたものは心のどこかにしまわれてしまったわけではない。それはエナクトされるのだ。」(p211)ということで、ここでめでたくエナクトメントと解離が(私の頭の中以外で)つながったわけである。めでたし、めでたし。
これはあたり前の議論のようでいて、実は精神分析の文脈ではかなり悩ましい問題でもある。精神分析では、この種のABという関係が考えられていなかった。心は繋がっている。たとえ意識と無意識でも。だから患者さんの、「先ほどAといった時、Bということを全然考えていませんでした。」という言い分は、少なくともそのままでは治療者にはすんなり受け取られない。必ずこうなる。「Bということへの抵抗があったのですね。その抵抗について考えましょう。」およそ精神分析のトレーニングを積んだ人なら、あるいは精神分析理論を学んでそれを臨床的な考えの中核に据えるような治療者なら、患者さんの話を聞いた際のこのような疑いを頭から拭い去ることはできない。しかしおそらくそのような治療者も日常生活では、同様の体験を持ち、「Bへの抵抗」を深刻に考えることは案外少ないものである。それはそうだ。もし「Bへの抵抗」が存在しているならば、本来一人で積極的には考えたくないものだから。(治療者もいないのに。)またもし「Bへの抵抗」が存在していなければ、つまりABが解離しているのであれば、「Bへの抵抗」という発想自体がわかないであろうから。
ただし精神分析に解離を持ち込んでいるスターンの筆致は、かなり分析的ではある。「私は自分自身で直接体験することが耐えられないような自分の状態を『演じて』、元の解離する以前の状態に無意識的な影響を及ぼす。」つまりここで無意識的な影響ということで、心は一つという「神話」(と私、岡野はここで敢えてよばせていただく)を保っているのだ。