2013年11月13日水曜日

エナクトメントと解離(9)

私たちのやることが、「向こうから来る」という性質は、でも思考においても言える。考えが、発想が、新しい旋律が、向こうからやってくる。(私には聞いたことのない旋律が湧いてくる才はないが、作曲をする人の場合はこれがあるはずである。)これは脳科学的には誠に正しい観察である。前野隆司先生の言う「受動意識化説」が示す通り、(私も同じことを「マルチネットワークモデル」で書いたが)私たちの意識は実は幻で、仮想的なものであり、脳のネットワークが自律的に産出したものである。そのことをすんなりと受け止めた場合、全てはエナクトメントである、という私の最初の極論に至るということになる。しかしスターンやブロンバーグの議論は、それを解離と結び付けているところが特徴である。それはそれで歓迎なのだが、すると今度は「何でも解離」になって混乱するのではないかと心配するのである。ということで翻訳の続き。(P224から)
フォーミュレートされていない体験という概念はしかし、現実が存在する、ということの否定ではない。むしろ以下の主張をしている。つまり現実は所与ではない。それは体験が偽りのものとしてではなく成立するための限界のセットである a set of limits on what experience can become without being false. より窮屈な限界、たとえばあるエナクトメントの意味をフォームレートする自由でさえも、たくさんの解釈のための十分に広い余裕を残している。とすれば解離は、ある明白な体験により分節化され、フォーミュレイトされるような一定の可能性の範囲を考慮することを無意識的に拒絶することであり、それらを露わにする興味を遮断してしまうことだ。ある瞬間に私たちが構築する自由を有する可能性をどれだけ持つかは、その瞬間に私たちに与えられた対人的な場が何を意味するかによるのだ。←さぞかしわかりにくいだろうが、一生懸命訳しているのだ。しかし訳しながら私自身が意味をつかめていないこれ以上わかりやすく出来ないのである。
ということで先ほどのわかりにくい臨床例がまた登場する。

私の臨床例では、私は自己愛的な喜びを直接的に体験し、患者をがっかりさせるような仕方でエナクトとした。(患者が順調に行っているというのをあまりに簡単に受け入れすぎた)。その間私の患者は、私を喜ばせるという試みをエナクトした。(彼は自分の「進歩」により私を喜ばせているということに気が付かなかった)。そして親―分析家が、物事がちょっとうまく行っているということに簡単に騙されてしまうことにがっかりするということを直接的に体験していた。(つまり私の患者は自分がどのように見えるかに騙されるようなことはなかった。彼の分析家のようには)。私は実際に患者をがっかりさせるという、自分の無意識な参加を知り、罪悪感を感じた時に初めて、その葛藤を体験できたのである。(ただし私は自分のエナクトメントを、それが私の中の葛藤という形で解決できるまでは気付けなかったということが大事である。)