2013年11月1日金曜日

エナクトメントについて考える(9)

昨日はまたまたこんな夢も見た。新聞紙の3面に割と大きな記事。
「●●区に在住の自称精神科医が逮捕される。自称大学教授でもある容疑者は、先日郵便迷惑条例違反で逮捕された。調べによれば容疑者は不特定多数の「知人」に50枚以上の同じ文面のはがきを送りつけたとされる。葉書には送付日時を偽り、次年の「一月一日」と書き込まれ、「賀正」などの儀礼的で意味のない文章を羅列した内容が印刷されていたという。警察の調べに対して「間違いありません。」と容疑を認めている。しかし「慣例になっているので、今年も大丈夫だと思った」とも強弁し、「慣例だったら何でも許されるのか?」との問いかけに無言でうつむくだけだったという。家宅捜索をしたところ、夏にも同じような手口で「暑中見舞い」などと書かれた儀礼的で意味のない葉書を不特定多数の「知人」に送りつけていたことが判明し、書き損じの葉書が押収された。警察ではさらに余罪を追及している。」 
    ← 全然面白くないから削除すべき?


有用か、それとも有害かという議論
エナクトメントはコンテインメントの失敗ということであるならば、有害であるという。それはそうだ。しかしさらに重要なのは、エナクトメントの後に何をするか、ということであるという。つまりそれに関連した転移・逆転移関係を解釈することにより、あらたな洞察を得ることが出来るのだ。ここら辺は同意する。
 エナクトメントが失敗であるということは、それはできるだけ避けるべきものということになるが、リカバー出来、また有用でありうるという見方は、治療者をそれだけ自由にすることになる。とくに関係論者のレベンソンのように、エナクトメントが治療場面に於て、「遍在している ubiquious」と考えるならば、なおさらである。私自身はといえば、もちろんエナクトメントは遍在的であるというのは妥当であると思う。ただそれを言いすぎると「何でもエナクトメント」となり面白くない。だからエナクトメントの中でも特に問題すべきものについてフォーカスを当てるべきであるという立場である。
エナクトメントの生じるメカニズム

「クライン派と現在的なアメリカの分析家によれば、エナクトメントは、患者により発したプレッシャーにより分析家が引き込まれて行うものと理解されている。」(p94)と書かれている。当たり前のことかも知れないが、私には少し腑に落ちない。結局は患者の責任、という雰囲気を感じ取るせいなのだろうか。患者の無意識のファンタジーが分析家にPI(投影性同一化)され、治療者がそれに応じてアクトインする、という、どこかで見たことのあるような図式だ。しかしこうも書いてある。「レベンソンのように、エナクトメントが遍在的である、という見方は、この図式の妥当性を減ずる。」うん、そういうことが書いていあるこの論文は信用できる。レベンソンはさすがだな。そう、エナクトメントの醍醐味は、そして危険なところは、それが治療者の持つ、患者のPIを受ける以前の問題を反映する可能性であり、それに治療者がどのように対処すべきかという問題なのだ。