2013年11月10日日曜日

エナクトメントと解離(6)

ラッカーはこんなことを言っているという。「治療者は常に逆転移神経症にかかっている。もし患者が攻撃性を出している時に、治療者が自分の攻撃性を否認している場合には、その患者に対して共感的にはなれない。」その変わり、患者が幼少時に、怒りを持った患者を拒絶した親に同一化することになる。するとそこで生じるのは、sticky enactment つまり粘着性のエナクトメント、ないしは impass 膠着状態となるのだ。そのような時の治療者は自分の心全体を見て、患者の攻撃的な部分にも共感できなくてはならないとする。
 うん、この例はわかりやすい。スターンの発想もこのラッカーの影響を相当受けているということになる。スターンが付け加えている新しいこととは、このような二つの部分が葛藤を形成していないこと、だから解離しているということだ。もう一つは葛藤の欠如がエナクトメントを生む、という一見パラドキシカルな表現。葛藤を持つことが健康の証である、と。
うーん、でもこうなると彼の解離の概念はスプリッティングの概念と限りなく近づいて来ないか?スプリッティングも、葛藤とは違うと考えるからな。ここら辺の議論はかなりビミョーだな。ここでちょっと復習すると、スプリッティングは意識内、解離は健忘障壁がある、と考えるのが常識である。ということはやはりスターンやブロンバーグの言う解離は、通常の解離よりかなり広いことになるだろう。あるいはこんな考え方もできるぞ。投影性同一視(PI)を起こすような心の部分は解離している、と。つまりブロンバーグ―スターンの解離理論は、PI理論のアメリカ版なのだ。そしてサリバンがその根底にある。何しろ me, not-me の概念を打ち出したのだから。というところで自分たちの出自も明らかにしているのである。ブロンバーグは言っている。「サリバンの理論は、私の考えでは、解離の理論なのだ。」
 しかし私は今のところものすごい誤解をしているかもしれないので、もう少し勉強が必要だ。でも少なくとも、解離という複雑な現象に、精神分析がメスを入れているという期待は、それだけす薄くなってきている。