2013年11月8日金曜日

エナクトメントと解離(4)

 どうやらこの論文の核心部分に来たようだ。スターンは、この図に示したような事柄を、実はフィリップ・ブロンバーグ Phillip Bromberg から教えてもらったのだと書いてある。彼は最近解離という文脈から分析理論を洗いなおしているアメリカの分析家である。
スターンのまとめをもう少し読む。エナクトメントは内的葛藤の表現ではない、という。エナクトメントは葛藤の欠如を表している。エナクトメントが生じたときは、外的な葛藤が強烈になる。そしてエナクトメントが解決するのは、内的な葛藤が成立した時である。それは互いに解離され、二人の人間により担当された二つの心の部分が二人のうちどちらかに内的な葛藤として収まった時に終わるのだという。ウーン・・・・・(沈黙) いきなりそんなことを言われても…・。部分的にはわかるところもある。解離を起こしている部分は葛藤が存在しない。たとえば大人の人格と子供の人格の間にあるのは葛藤ではない。大人の人格は、子供の人格が突然入り込んできそうになるのをこらえる、などのことを体験するが、これは子供の自分を抑えている、ということではないのだ。少し子供の自分は異物、よそ者、としての意味を持つのである。

とまあ、ここら辺まではいいのだが、例えば昨日の「解離の対人化」等になるとさっぱりわからない。例のエナクトメントは「患者により解離された部分は治療者に体験される。そして患者の中で明白に体験されたものは、治療者の中で解離される。つまり両者はお互いに部分的にしか体験されていない。」というくだりだ。少し臨床例を考えて検討してみたが、私にはよほど理解が浅いらしく、あまりピンと来ない。たとえば患者が、治療者に対する依存心を解離しているとする。たとえば子供人格の形で、である。するとエナクトメントの場面では、子供人格が出現するということになる。その時は大人としての側面は解離している、ということだろうか。そして治療者はその時世話役(大人)としての役割をとらされる、ということだろうか?うーん、よくわからない。ブロンバークやスターンの真意がまだつかめない。そのままもう少し読み進めてみる。
 関係精神分析にジョーディー・デイビスという気鋭の精神科医がいて、外傷関連の議論を従来から扱っているが、彼女の説は、患者の中で解離している体験はエナクトメントして出現し、それを唯一扱うことができるのは、転移―逆転移関係の分析であるという。そう、ここら辺の議論は私は仄聞していただけで実際に調べてはいなかったのだ。そしてそれは、フォナギーたちの研究との共通点がある。例のメンタライゼーションの議論でおなじみの、イギリスの分析家ピーター・フォナギー先生だが、彼もエナクトメント、スプリッティング、解離といった議論を縦横無尽に用いて議論しているという。
 スターンによれば、ここで援用されるのが、サリバンの議論である good-me, bad-me, not-me などであるという。いよっ、さすがサリバン派。