2013年11月20日水曜日

エナクトメントと解離(16)

 ところがエナクトメントでは、それとは対照的に、体験はそれに影響を与えることができずに絶望的になることもあれば、ほかの人に押し付けられたという感覚を与えるようなものである。時にはそうとは気が付かずに起きてしまうのだ。それらの種類の体験のなかでも、特に強制されたという感覚は、エナクトメントではしばしば体験されることである。私たちは奴隷により、そのように生きることを強制されて made いると感じ、どうすることもできない。(訳注:この made は、解離や統合失調症に見られる作為体験 made experience のニュアンスを有する。)解離の場合には、自分の生を自分が十分に棲まわっているという感覚、ウィニコットが述べた真の自己の「本物である感覚」を持つことができないのだ。
私はこの論文を、「目はどうやって自分自身を見るか」という謎かけにより始めた。後に私はそれをより回答がしやすい形に変えた。そしてわかったのは、逆転移を知ることは不可能であるのは、私たちを専心さsinglemindedness という観点から見たときだけである。私たちの心が一つの状態しか取りえない時、自分自身を観察することは、心を捻じ曲げて不可能などこかから眺めるようなところがある。これが「ブートストラッピング(靴紐)問題」だ。(訳注:bootstrap =自分自身で自分のことをやり遂げること)。葛藤を持てるようになると、私たちは心を膠着状態にしてしまっている一つの固執した考えにたいして、もう一つの選択肢を設けることが出来ることになる。私たちは複数の意識状態を作ることが出来るのだ。専心状態から脱するということはいくつもの内的な状態を持つ事が出来、一つの心がもう一つの心を、形而上学的な歪曲を経ることなく眺めることが出来るようになる。逆転移への気付きという、それ自体が不可能な問題は、葛藤を体験することにより先進さを超克することで解決するのだ。
ここらへんも全部繰り返し。新しい内容はない。でも本当なんだろうか、ここに書かれていること。例えば愛と憎しみという古典的な葛藤。愛する気持ちと憎らしい気持ちの両方を持っているのが葛藤。愛してだけいると思って、相手を苦しめることをエナクトしてしまっているのが、解離状態。でも後者は、「憎しみを抑圧した状態」とどう違うのか。「抑圧の場合には、失策行為や症状として現れるはずだ」というのが答えだろうが、相手を傷つけるようなことを「誤って」言ってしまったという行為は、果たしてエナクトメントとどう違うのか? この問いに対する明白な答えはおそらくないのであろう。