2013年11月15日金曜日

エナクトメントと解離(11)

もうすこし訳を続ける。
私の症例で言えば、私が解離していた部分をフォーミュレイトできるならば、そこで初めてそのエナクトメントを続けるかどうかを決める機会が訪れる。もしエナクトメントをやめるとなったら、それに代わる行動の手段をイメージした途端に、エナクトメントはその効力を失う。もしエナクトメントを続けることになったら・・・・。それはどん詰まりまで行き着くだろう。そして患者は自分を助けてくれるであろうと期待していた治療者に失望し、再び治療を去ることになるだろう。(中略)
 分析家は体験を積むことで、不快な情動を貴重なものと考えるという術を得る。キャリアーをはじめて最初の頃は、ここで述べている心のざわつきは不快なものだが、そのうち自由の直感intuitions of freedomとなるであろう。自由への願望に根ざした私たちの臨床の作業へと献身する中で、私たちはそれに興味を抱く能力を有するのだ。そしてその自由さは患者だけのものではない。私たちの自由でもあるのだ。そのために私たちは辛い体験にも動機づけられるのである。私たちは経験を積むことで、安全よりも自由を求めていくようになるのだ。あるいは安全を感じることにあまり多くを費やす必要がなくなるために、自分たちの自由への願望にさらに耐えることができるようになると考えてもいい。
自由への願望に耐える・・・・よくわからないながら訳しておく。
分析家はシミントンSymington が言うところの「自由の活動the act of freedom」に向かう。つまり分析家はそれまでの無意識的な拘束から自由になるのだ。これは治療者は患者に満足を与えたり真実を知ったりすることによってではなく、患者といるという体験をより自由に感じるようになることを意味する。私は臨床を初めて最初の頃は、心のザワつきを一種の警告と感じていたが、今ではそれをチャンスopportunity と感じるようになっている。

なにか大げさな話になってきた。解離だとかエナクトメントとかにとどまらず、人間が無意識から解放されるためには・・・みたいな話になってきている。でもここで無意識が出てくるところが精神分析なんだなあ。