2013年11月3日日曜日

エナクトメントについて考える(11)

続けて昨夜こんな夢を見た。
全国紙の3面を開くとこんな記事が載っていた。「自称大学教授、逮捕される」とある。東京都○○区在住の自称大学教授が、魚類愛護法違反で逮捕された。調べによれば容疑者は犠牲魚の死体を業者から買い取り、自宅で鋭利な刃物を使って切り裂き、あろうことかそのその焼死体を食肉した上に、遺体の一部をポリ容器内に遺棄したとされる。調べによれば犠牲者となった魚類は、学名Cololabis saira (「通称さんま」)2歳である。容疑者は「魚食行為に間違いありません。」と容疑を認めている。なお共犯者は容疑者の妻K子で、実は毎年秋に同様の犯行を繰り返した疑いがある。証言をもとに近所のごみ収集所を捜索した結果残された魚の白骨化した遺体の一部も見つかり、DNA鑑定の結果別の犠牲魚であることが分かった。調べによれば同家の愛犬「チビ」も教唆の上その遺体の解体および食肉、ならびに遺棄に関与したものと見られている。容疑者が魚を調達したとされる「スーパー●●」は魚類の虐待及び死体の販売に広く関わっていたものと見られ、全国で一斉に家宅捜索が行われる予定である。なお容疑者は調べに対して一言「脂がのっていて美味しかった・・・」と呟いていたという。警察ではさらに余罪を追求している。

 しかしベンジャミンの主張としては、こんなことも書いてあるぞ。エナクトメントとは過去のトラウマ状況の繰り返しであり、その中で分析家は自分が自分の役割を取ることでトラウマを起こしてしまったことを認めなくてはならない、だって(P.94)。最初から加害者扱いかい?。昨日出てきたmoral third とはその時に出現するのだという。それにより完全なるコンテイニングが成立する、と書いてある。ベンジャミン。あいからわず鼻息が荒いなあ。
さて例のスペクトラムの話は続いている。この概念の創始者ともいえるシオドール・ジェイコブスは次に来るという。彼は、クライン派とポストモダンのアメリカ精神分析の中間地点であり、一者心理学と二者心理学の間を揺れるという。うん、彼らしい妥当な選択だ。(何か最近口調が変わっていないか?) 一者心理学的には、エナクトメントには分析家の未解決の問題が反映されるが、二者心理学的には相手からのプレッシャーにより生じるエナクトメントもある。チューシッド(Chused動詞の過去形みたいな名前の人だ)先生も似たような意見であるという。マクラフリンという人はもう一歩二者関係に踏み込んで、こんなことを言う。「分析状況で起きるエナクトメントは、分析家と患者がお互いが退行し合い、相手からの刺激で自分の内的な問題を表現する形になっているのだ。」フンフン。でもそれは葛藤が刺激された時にだけ起きるのだよ、というところがクライン派の極にも近く、結局中間ということだ。
 同様にこの中間地点に来るのが、ビヨン派(聞き慣れないが、当然そんなのもあるのだ)の影響である、という。そこでカッソーラ Cassorla という人の理論が出てくるが、難しいからとばしちゃおう。案外いい加減だな。
 さてクライン派とは正反対の極に来るのが、関係学派ということだ。そのうちの一人スターンは言う。「エナクトメントとは、解離した状態だ。それは象徴化されていない体験であり、力動的な意味で無意識の部分なのだ。エナクトメントは異なる主体との間で生じる」 うーん。これで解離理論と精神分析は繋がることになる。私の中では、関係性理論、エナクトメント、解離理論、解離性障害は、だからひとつながりの問題なのだ。)だからこの論述はありがたい。いちいち不必要にフィールドを変える必要もなくなるのである。