2013年11月5日火曜日

エナクトメントと解離(1)

 これからしばらく Donnel B. Stern, Ph.D.という分析家の論文 The Eye Sees Itself: Dissociation, Enactment, and the Achievement of Conflict ((2004). Contemporary Psychoanalysis, 40:197-237)という論文を読む。エナクトメントと解離の接点に関する重要な論文である。まあ大体こちらの方向に行くのはわかっていたわけだ。そしてたまたまフリーペーパーをネットで見つけることが出来た。それがこのドネル・スターンの論文である。それにしてもラッキーだったな。
 スターン(あの、ダニエル・スターンと間違えないように。どちらもD.Stern だから紛らわしいが。)は、関係性理論のホープの一人である。彼によれば、精神分析の目的は、洞察の獲得ということから、真正さ authenticity, 体験の自由度 freedom to experience そして関係性 relatednessに代わってきたという。ここら辺いいね。さてスターンはどうやって解離やエナクトメントと近づけて行くのだろうか。
読んで行くとこんなことが書いてある。最近の精神分析の流れの一つは、やはり逆転移の扱いや理解の仕方の再考ということである。わかりやすく言えば、治療者はどうやって自分のことをわかるの、ということだそうだ。それをこの本は、「眼は自分を見えるか」という副題にもしている。この問題についての意識を触発したのが、レベンソンの“Fallacy of Understanding“という本であるという。不勉強にして知らなかった。しかも1972年の本であるという。
 さて最近の逆転移についての考え方は、二者心理学的である。それは転移―逆転移という関係の中で起きてくる一種のパターンとして理解しなくてはならない。問題は治療者がある患者と特定の関係性のパターンに陥りやすいという傾向があるということだ。これはその患者さんが「~という問題を持っている」というわけではないことに注意。それを言ってしまうと一者心理学に陥ってしまう。(ところでこれを読んだ読者←だからいないって。は不思議に思うかもしれない。パターンに陥りやすいって、結局その患者さんに独特のものであるとするならば、結果的にその患者さんの固有の病理ということにならないのか? 二者心理学といっても、主張していることは一者心理学とあまり変わらないのではないのか? これは残念ながら当たり、である。あとは心がけの問題だ。)

このスターンの論文を読んで行くと、彼は二者間の「相互の調整mutual regulation」は無意識的に起きているとしてもエナクトメントではない、と書いてある。それは具体的には共感的な理解や抱えることや肯定などであり、それは思い出すのが辛かったり、自分の無意識がそこに反映されるたぐいのものではなく、それはエナクトメントに含めなくてもいいのだ、というわけだ。なるほど「なんでもエナクトメント」は極端というわけか。これもわかる気がする。確かに他意のない、またストレスの伴わない他者との交流にエナクトメントの議論を持ち込むことの意味はないだろう。