2013年10月29日火曜日

エナクトメントについて考える(6)

 エナクトメントの文脈でいくつかの決定的に重要な論文がある。私が好きなTheorore Jacobs先生の、1986年の「逆転移エナクトメント」に関する論文。やはりこれが事実上この概念の嚆矢たるべき論文なのだろう。「治療者は逆転移を様々な形でエナクトし、行動に表わしているよ」、という論文。そりゃそーだよね。患者のほうはそれが当然のご突終始起きていると考えるのが普通だから、改めてエナクトメントについて議論することの価値もあまり大きくないというわけだ。治療者のほうの無意識も漏れだしているという議論だからこそ、エナクトメントは面白味があるわけだ。

 もう一つ重要な論文が述べられているが、私は読んでいなかった。(っていうか、主要論文をほとんど読んでいない!) Betty Joseph の From acting-out to enactment (1999)という論文。 なんだ、そのまんまの論文じゃないか!!というのもエナクトメントとアクティングアウトの区別というのが一番わかりやすく、また一番意味がある議論だからである。この論文でJosephは主張しているという。それは「現在精神分析では重要なシフトが起きていて、それはアクティング・アウト acting-out から、アクティング・イン acting-in への関心の移行だ」ということだ。」つまり行動化の中で、治療関係の外部で起きるものから内部で起きるものへ、分析の世界での議論が移ってきたというのだ。
 これはわかるようでよくわからない発言でもある。なぜならアクティング・アウトという言葉は、この間も述べたようにフロイトの「アギーレン agieren、活動 」の英訳であり、「アウト」という部分はその過程で偶然にくっついてしまったからだ。日本語だって「行動化」に内も外もない。(もっともacting-out を「行動外化」、acting-in を「行動内化」と訳していたならば違っていたかもしれない。そんな几帳面な人が行動化の最初の翻訳にかかわっていなかったことがありがたい。) もうひとつわからないのは、では分析家は最初はアクティング・アウトについてしきりに論じていて、だんだんアクティンぐ・インに移ってきたかと言えば、必ずしもそんなことはないだろうということだ。だって治療者に不満を持っていた患者が、治療室外で誰かに逆切れするとしたら、それはアクティンぐ・アウトだが、治療時間に遅れてやってきたり、治療者に乱暴な口をきくのだってやはりアクティング・アウトと呼ばれて議論されてるのが通常だからだ。むしろ行動化 agieren がアクティング・アウトと訳されてきたことの問題点が指摘され、それより「内も外もない」エナクトメントについての議論を人が好むようになったという現実があるのだろう。