2013年10月5日土曜日

「再固定化」概念の見直し(1)



「再固定化」は強力な概念であり、また現象であるが、私自身は納得していない(もちろんよく分かっていない、ということもあるが)。それは記憶の再編だけの問題なのか?たとえば誰かのある一言をきっかけにものの考え方が変わるのはなぜか?自己価値観の変化は?自分を受け入れられるようになるのは?
 例えばこんな例を挙げてみる。私がある本を出す。読者はたいていは私からは見えない。ところがある読者から、「とても面白かった」というコメントをもらうとする。私は当然うれしいし励みになる。やる気が出る。あたりまえでよくある話かもしれない。同じようなことは治療場面でも生じるかもしれない。勇気づけ、ポジティブなフィードバック、自己価値観の向上、等様々な呼び方がなされるだろう。しかしこれも私はTRPのプロセスではないかと考えるのだ。自分の中で何かが変わるただし変わったのは「記憶」という呼び方が適切ではないだろう。
 あるいはこんな例。ある幼少時に非常につらい思いをして、人を信用できなくなっている人との面接。何度か(何年か?)のかかわりを通して、少しずつこちらを信頼し、その人の他人とのかかわりの持ち方全体が変わっていく。これもTRPではないか? 純粋な記憶が問題ではないけれど。
 もう一つの例を加えておこう。昔のあまり思い出したくない出来事を治療者により尋ねられた女性。それまでほぼ忘れていたことがその晩から思い出されて、感情が非常に不安定になる。フラッシュバックが頻発し、不眠気味になる。これもTRPではないか?ただし逆方向に働いた場合である。臨床をやるものとしては、脳科学的にこれらとTRPと類似した機序で起きるのか、それとの異なるのかについて知りたいところだ。
 自分の本に対するイメージ、という最初の例を考えてみる。これは記憶ではなく、一種の印象のようなものだ。私にはほんの表紙のイメージが浮かび、細かい内容についてはその章の一つ一つが思い出せるが、一挙に押し寄せてくるわけではない。そしてそれに対して「まあまあの出来」とか「恥ずかしい出来」とかの評価を下している。「面白かった」という読者の反応を受けた前とあとで、私が持つ本の具体的なイメージ(黒の表紙、本文の章立て、など)は代わらない。その評価が少し変わるというわけだ。これは記憶か?必ずしも。思考内容か?おそらく。なぜならそれを点数化することが出来なくもないからだ。読者の反応を受ける前は自ら60点に採点していた自分の本を、読者の葉書を読んだあとは75点に修正する。これも思考内容の変更であり、認知の変化であり、再固定化ではないか? 待てよ?認知療法で生じることも再固定化か???