2013年8月2日金曜日

日本におけるセクシュアリティのあり方 (5)

今日で、このテーマは終わりである。なかなか難しい。明日からは、3年前にラジオに出た時の録音を掘り起こしてみる。


 ここで谷崎潤一郎も引いてみよう。谷崎の有名な「陰翳礼賛」は、要するに日本的な美とは、見えにくい影の部分、陰影にその源があるという発想に基づいたものだが、それを田崎は例えば家屋の事情から論じている。「美というのは常に生活の実際から発達するもので、暗い部屋に住むことを余儀なくされた我々の先祖は、いつしか陰影のうちに美を発見し、やがては美の目的に添うように陰影を利用するに至った。」「陰翳礼賛」より
この谷崎の記述は江戸時代までの日本の家屋の事情を思い起こさせる(と言っても私もどこかで読んだだけだが。)わが国では近代になり洋風建築が入ってくるまでは、家屋がドアで仕切られるということはなく、それぞれの部屋はせいぜい障子か襖で隔てられているだけだった。もちろん視界は外とはさえぎられるが音はかなり筒抜け状態だったのである。そこでは襖を隔てた隣で起きていることは常に想像やファンタジーを掻き立てるものだったのである。日本のエロティシズムも、そのような想像を掻き立てるもの、間接的に触れるものとして発達したことは想像に難くない。
「夕鶴」に戻って
最後に夕鶴の「見るなの禁止」のテーマに戻ろう。夕鶴を含む民話や伝説は、同時にセクシュアリティのテーマを間接的に扱っていたのではないか?
「見る」ことによる失望や脱錯覚は、セクシュアリティにおける脱幻想(「異性が完全なる合同を遂げて緊張性を失う」こと(九鬼))を象徴してはしまいか?
民話や伝説が性的な表現や描写をほとんど含まないのは、逆にそれを「見る」行為により象徴させているからではないか?
ここら辺のテーマは、実はリスキーである。

(以下略)