2013年8月31日土曜日

トラウマと解離(3)

トラウマを忘れること

さて解離性障害の場合の、「トラウマを忘れる」とはどのようなことなのだろうか?それは端的には、交代人格を扱わない、あるいは少し無理にでも「お引取りいただく」ということに相当する。この問題についてはある意味では答えが出ていると言っていいだろう。なぜならほとんどのDIDの患者さんについて、彼女たちの非常に多くの人格が、実質的に扱われないままに終わっていくからである。
 DIDの方々の体験からわかることは、人間の脳にはある限界があり、同時に稼動する人格の数は決して多くないと言うことである。私はおそらく34程度と見ている。それ以外の人格はおそらく静止画像のようになっていて、少なくとも同時に「覚醒」しているとはいえないのではないか?しかしDIDの方々が自覚できる交代人格の数は通常は二桁以上であることを考えると、その大部分は静止画状態にあり、その静止の仕方にもさまざまな段階がある。つまりすぐにでも命を吹き込まれることが可能な「静止」と、深い昏睡状態にあり、容易なことでは覚醒しない状態での「静止」である。そしてそれらの中には、おそらく今後も覚醒することがないままで、いわば凍結された状態におかれ続ける交代人格があると言うことは、それがその人の精神の安定にとって害のない、あるいは場合によっては重要な事情があるのであろう。
 私がここで何を言わんとしているかといえば、この事情が、トラウマ記憶が多くは「扱われ」ずにいてもいい、あるいは「扱われ」るべきではないということの、解離の文脈からの根拠である。人はさまざまな外傷性のインパクトを持った経験を過去に積み重ねている。しかしその多くは忘却されていく。解離性の方々の場合、それぞれのインパクトがちょうど月の表面に出来た無数のクレーターのように、人格の形を取って刻印されていくのであろう。しかしその多くは静止し、昏睡状態に移行する形で事実上心の表舞台から姿を消していくのである。