2013年7月30日火曜日

日本におけるセクシュアリティのあり方 (2)

おとといの日曜日は、札幌で外来精神医学会に参加。夏の札幌っていいなあ。でもどの景色を見ても、「冬はここに雪が積もっていて、凍結していて…・」と思ってしまう。素直にすがすがしい気候を楽しめないのだ。冬のカンザスの辛さがよみがえるのだろう。カンザス州の冬は、ちょうど札幌の冬と同じくらい冷えるのだ。帰りは漱石の「硝子戸の中」を読んだ。


1.「見るなの禁止」とセクシュアリティ

「見るなの禁止」とは世界的に有名な日本の精神分析家北山修氏が提唱している概念である。日本の神話には主人公が「な見たまいそ(見てはいけない)」とい禁止を破ってのぞき見することから悲劇(離別など)が訪れるというパターンが多くみられる。浦島太郎の玉手箱などはその一番ポピュラーな例だろう。北山先生が特に用いるのが「夕鶴」の例である(北山 :見るなの禁止 北山修著作集1 日本語臨床の深層 岩崎学術出版社、1993年。)。
与ひょうは、ある日罠にかかって苦しんでいた一羽の鶴を助けた。後日、与ひょうの家を「女房にしてくれ」と一人の女性つうが訪ねてくる。夫婦として暮らし始めたある日、つうは「織っている間は部屋を覗かないでほしい」と約束をして、綺麗な織物を作る。これが「見るなの禁止」というわけである。つうが織った布は高値で売られ、与ひょうは仲間からけしかけられて、つうに何枚も布を織らせるが、つうとの約束を破り織っている姿を見てしまう。そこにあったのは、自らの羽を抜いては生地に織り込んでいく、与ひょうが助けた鶴の姿だった。正体を見られたつうは、与ひょうのもとを去り、空に帰っていくというストーリーである。
 北山先生はここから日本人の原罪のあり方を説いていくわけであるが、彼の一門下生としての私は、これを少し別の文脈から読みたくなる。それはつうの側からの誘惑という文脈である。もちろんつうが与ひょうを誘惑したというわけではない。ただ「見るなの禁止」は強烈な誘惑の源になり、それを男性の主人公が破ってしまうのではないか。言い表すならば、「見るなの禁止」は「見よの誘惑」とも考えられるのである。これもまた文化を通して普遍的なテーマではないかと思うのだ。なぜならば日本では見る、見られるということにまつわる恥や羞恥の問題がしばしば問われるからだ。
(以下略)