2013年7月18日木曜日

こんなのも書いたぞ (15)

罪の日本語臨床 北山修 (), 山下達久 ()  創元社、2009年 に所収


日本語における罪悪感の表現について
           

1.はじめに出発点としてのベネディクト

この論考で私は日本社会における罪悪感の問題について、私自身の異文化体験をまじえつつ考察を行う。
従来は日本人のメンタリティはとかく恥の感情と結びつけられて来たが、罪の文脈からも多くの興味深い論点を見出すことができる。そこで日本人における恥と罪悪感の問題を半世紀以上も前に論じたルース・ベネディクト(1967)の著作を議論の出発点としたい。
ベネディクトの名前や業績は、多くの方にとってなじみ深いものであろう。彼女の著した「菊と刀」は、第二次世界大戦の終結直後の1946年に米国で出版されたが、戦時の反日のキャンペーンの一環として書かれたものとみなされる傾向があったのは、その時代背景からやむをえなかったのであろう。
「菊と刀」は日本文化における恥の意味に注意を喚起したという意味で画期的であったが、そこに示された日本文化の理解は過度に図式化されたものであった。ベネディクトは日本社会においては人前で恥をかかされることを回避する傾向が極めて強いとし、原罪の意味を重んじるキリスト教社会のアメリカと対比させた。それは恥は他人との関係で生じて人間の行動を規制するということを意味し、「人が見ていなければ悪いこともする」というニュアンスを伝えていた。つまり日本社会においては本質的な規範や倫理性が欠如していることを示唆しているかのようであった。他方欧米社会においては罪は神との関係で体験されるものであり、内在化された規範、倫理観を意味する。そしてそこには罪の、恥に対する倫理的優位性という前提が見て取れたのである。

ベネディクトへの賛否両論

戦後の日本においては罪悪感や恥をめぐる様々な文化論が提示されたが、そのひとつのきっかけとなったのがこのベネディクトの著作であったことは確かであろう。そしてこの議論には数多くの批判がよせられた。
たとえば哲学者和辻哲郎は「ベネディクトの述べている日本人の価値観は一部の軍人にしか当てはまらない」と述べている(和辻、1979)。ただしこれは微妙に論点をずらした議論であったともいえる。一部の軍人だけがそれほど特別な心性を備えているのかも疑問であるし、恥の社会という視点が一部の軍人には実際に当てはまってしまうかの主張にはそれはそれで異論も多かった。また精神医学者としての土居(1971)の反論は広範に及び、ベネディクトとの恥と罪の理論の持つステレオタイプの傾向をさまざまな角度から的確に捉えたものといえた。
さらにベネディクトの主張に触発された恥の議論については、恥が他者との関係において生じるのか、それとも個人の精神内界においてのみ生じるのか、という論点に従った作田啓一(1967)や井上忠司(1977)の業績があり、公恥と私恥についての生産的な議論を生んだ。

日本社会における罪悪感の問題

そこで本考察において主要なテーマとなる罪悪感の意識はどうであろうか? これに関しては日本社会においては罪悪感が体験されにくいとするベネディクトに対する柳田國男の反論に注目したい。柳田はその著作(1950)で次のように論じている。
「日本人の大多数のものほど『罪』という言葉を朝夕口にしていた民族は、西洋のキリスト教国にも少なかっただろう。」
この柳田の反論は私がおおむね共鳴するものである。次の章でも述べるとおり、日本人が頻繁に用いる「すみません」という言葉に、私は常日頃から違和感を覚えてきた。そしてそれがわが国の文化を端的にあらわしているのではないかとも考えていた。柳田の議論が示唆しているのは、罪もまた対人場面において生じるということであるが、それも正しい指摘であると言える。なぜなら「すみません」とは言葉の上では謝罪を意味し、罪の意識を他者に向かって表現していることになるからだ。人は悪い行いをした場合に、個人として、自らの神との関わりで罪の意識を持つこともあれば、その行いにより傷ついた人を前にして罪悪感を喚起され、謝罪することもある。日本人の「すみません」は「『罪』という言葉を朝夕口にする」(柳田)典型といえるであろう。


. 私の異文化体験から  
英語でほめられるという体験と罪悪感

以上の考察は、恥や罪の感情そのものをベネディクトが行ったような形で文化に従って類型化すべき根拠は希薄であり、柳田の主張に見られる通り、日本人は対人場面において罪の意識も頻繁に表明するという事実を示すものである。しかしそれでは日本人と米国人は同じように罪悪感を体験していると言えるのだろうか? 私はやはりそこには大きな差異が存在すると考える。ただしそれは日本人とアメリカ人が罪悪感をいかに体験しているかという点ではなく、いかに言葉で表現するのか、というレベルにおいての違いなのである。つまり罪悪感の他者への伝達のされ方に日米の違いがあるというのが私の考えであり、本稿で最も強調したい点である。
罪悪感や恥はそれが表現された際に周囲の人間にも様々な反応を生む。謝罪したり恥じ入ったりする人を前にして、私たちは同様の感情に駆られたり、逆に自分たちが罪や恥の感情を他人に負わせているのではないかという懸念を抱いたりする。それらの言語的な表明が過度に行われた場合にはそれだけ大きな情緒的反応を相手に及ぼすであろう。またそれらの表現は他者に及ぼす影響を考慮した上で、あるいはそれを目的として行われることもあるだろう。それが私が考える罪悪感が持つコミュニケーションとしての意味なのである。そしてこの考えに至った経緯を説明するためには、まず私の個人的な体験に触れなくてはならない。

私は罪悪感や恥の意識については、以前から人一倍興味を抱いてきたが、その興味や関心は米国での生活を経ることで新たな洞察を得ることができたと考える。
私の「異文化体験」は、ある意味では留学前にはすでに始まっていた。私にとっては日本で出会う外国人は様々な想像を掻き立てる存在であった。彼らは日本人とはまったく異なる存在として私の目に映っていた。特に欧米人は人前で緊張したり恥ずかしがったりすることが非常に少ないように思われた。彼らは常に堂々とふるまう一方では、相対する日本人は圧倒されてすぐに恭順や謝罪の態度を示すように見受けられたのである。
実際日本の街かどで欧米人に英語で話しかけられた日本人は、それに満足に対応できないのは自分たちの落ち度であるかのような後ろめたさを感じているようであった。それでもカタコトの英語で答える人はまだいいほうで、初めから外国人に話しかけられることをあからさまに敬遠する日本人も少なからず見受けられたのである。
当時テレビで「ウィッキーさんのワンポイント英会話」というのを時々目にした。「ウィッキーさん」が道行く人に英語で話しかけると、日本人は多くの場合恥ずかしがり、戸惑う様子を見せる。時には逃げまどう日本人を追いかける「ウィッキーさん」の姿をテレビカメラが追うというシーンがあり、実に情けないと思うと同時に、でも自分だったらきっと真っ先に逃げる口だろうと思ったりした。(ちなみに最近テレビを通して再開した「ウィッキーさん」は、かなり強いアクセントのある英語を話すスリランカ人であった。私は留学前には、彼のことを訛りのない英語を流暢に話す欧米人だと思い込んでいたのである!)。

英語においてほめられること

私の正式な「異文化体験」は実際に渡米し、英語の環境に身をおくことにより始まった。その際最初に大きな違和感を覚えたのが、人にほめられたり、人に謝罪する際の対応であった。英語ではほめられた際に相手に対して原則として「thank you有難うございます」と返すのは、初歩的な約束事といえる。しかしいざ実行する段になると大変勇気がいることなのだ。それはまさに自分の中にないものが、無理やり言葉により表現させられるという体験だったのである。
たとえば人前で簡単なプレゼンテーションをしたとしよう。そして「あなたのお話はとても面白かったですよ。」などと言われた場合、日本語なら「いえ、お恥ずかしい限りです」などと応じることになるだろう。しかし「有難うございます」と返す英語では、そのほめ言葉をいわばいったん引き受けることになる。言葉の上で「真に受ける」わけだ。これは日本語でのコミュニケーションとはまったく異なるメンタリティに基づいたものであるように思えた。
ほめ言葉を「真に受け」て感謝の言葉で返すアメリカ人の態度は、日本人のそれに比べてよりいっそう洗練されているのだろうか、それとも逆なのだろうか? 私にはその答えをいまだに得ていない。しかし少なくともアメリカ人の反応には素朴な自己肯定に基づいた単純明快さと率直さがある。
英語圏では人が誉められた際のこの「率直な」この反応は「有難うございます」には留まらないこともある。さらに「お気に召していただいてうれしいです I’m glad that you liked it.」「そんな風に言っていただいてありがとうThank you for telling me that.」「ありがとう。私も頑張りましたからThank you. I did my best.」と言い継ぐアメリカ人も多い。
これらの「率直な」反応の特徴は、それらの表現により会話がそこで一段落することである。一方が他方を褒め、他方がそれを率直に受け止めたことを表明し、そこでコミュニケーションがとりあえず完結するのだ。手紙のやり取りなどを見ればわかるとおり、これが通常の意思伝達のあり方である。
翻って日本語ではどうか? この「一段落」が明確でないのだ。私たち日本人はほめ言葉を率直に受けることを得意としない。そうすることにとてつもない居心地の悪さを感じてしまい、ほめ言葉をすぐに否定し、相手に跳ね返してしまうのである。
プレゼンテーションなどで「あなたのお話はとても面白かったですよ。」と言われた際の私たちの反応は、先ほど述べた「いえ、お恥ずかしい限りです」以外にも、「いやいやとんでもございません」とか「お耳汚しなものをお聞かせしました」(これも考えてみればすごい表現であるが)などいくつものバリエーションがあるが、たいていは最初にほめてくれた相手は「またご謙遜を」とか「いや、本当に素晴らしかったですよ。お世辞ではありません。」と言ってくれるだろう。しかしそれでもほめられた方は「そうですか、そんなによかったですか・・・」などとそれを受け入れることはありえない。「いやいや、とんでもありません・・・・」などと繰り返すであろうが、このやり取りを延々と続けるわけには行かないから、少しずつ声の調子を落としていき、最後まで相手のほめ言葉を受け取ることなく終わるのである。これが私が以下に「無限連鎖型」と呼ぶ、おそらく日本語に非常に独特のコミュニケーションなのである。
  
3.日本語における罪悪感と「無限連鎖型」のコミュニケーション

.では英語のほめ言葉への対応に苦慮したという私の体験についてのべたが、この.では日本語による罪悪感の表現のあり方について考察する。
私はほめ言葉に対して「有難うございます」と返す際に感じる居心地の悪さの正体を、当初は「気恥ずかしさ」として捉えていた。しかし気恥しさなら、すでにほめられた時点で生じているはずである。ところがほめ言葉にまつわる居心地の悪さは、そのほめ言葉に対する否定の言葉を発するまでの一瞬間、つまりほめ言葉をいったんは受け取ったままでいる状態で生じるようなのである。そしてこの居心地の悪さは、結局は罪悪感と同類の感情と理解するようになった。なぜならほめ言葉を真に受ける状況は、自分が相手より優れた存在、強い存在であるという前提に立つということであるが、それは私自身がかつて設けた罪悪感の定義にまさしく当てはまるからである。その定義とはすなわち「自分が他人より多くの快(より少ない苦痛)を体験する際に生じる感情」(*)と言うものであった。そこで本章ではこの罪悪感の問題に踏み込んで考察を深めたい。
  
(*)私は罪にしても恥にしても、他人との関係で体験されるものと自分に対して感じるものとは独立し、平行して存在してしかるべきと考えてきた。つまり両者とも「社会的感情 social emotions」でありかつ「自意識的感情 self-conscious emotions でもありうるという点では共通しているのである。しかし罪と恥の共通した特徴について考察を進めていくうちに、その区別が必しも容易ではなく、文献的にも十分に満足のいくような区別がなされていないと感じるようになった。そこで私はかねてより恥と罪の意識について私なりに定義し、両者を区別する試みを公にしてきた(岡野、1997年)。そして恥とは、「対人関係において自分の弱さ、不甲斐なさの認識に伴う感情」 (←→弱、ないし優←→劣の軸)にあり、罪とは、対人関係において自分が他者に不快や苦痛を与えたという認識に伴う感情(善←→悪の軸)という理解を示したのである。そしてこのうち罪に関して、それが生じる状況をさらに一般化し、「(罪悪感は)自分が他人より多くの快(より少ない苦痛)を体験する際に生じる感情」、ないしは「自分が他人より少ない苦痛(多くの快)を味わう際に、それにともなって体験される感情」としたのである。
この考え方は私としては常識的な定義と考えるが、このような区別を設けておくことで、それらの感情が対人関係で生じるかどうかについての議論を当然のこととして省略することが出来る。なぜなら上の過程は自分の心の中でも、直接の対人場面でも同様に生じるからである。


(以下略)