2013年6月26日水曜日

DSM-5における解離性障害 改訂版 (5)


ちなみにDIDの基準に憑依を含み込んだり、人格の交代を必ずしも第三者が見ていなくてもいい、などの変更を加えるに至ったのは次のような事情があるという(Spiegel, et al)。解離性障害という診断の特徴は、非常にDDNOS (ほかに特定されない解離性障害)が多いということである。全体の40%がDDNOSに分類されているという。これはDSMの扱う数多くの精神疾患の中でも特に高く、それが受け入れがたいという事情がある。解離の世界では一部の間に、DIDの診断には治療者が人格の交代を見届けることが必要であるとの了解事項があるのも確かである。その為に本来はDIDとして分類されるべき患者がNOS扱いをされているという可能性があったのだ。ただしこれについては解離に対して懐疑的な臨床家からは、「人格の交代があるという報告だけで簡単にDIDと診断していいのか?」という疑問が呈されることが容易に予想される。
これらの議論から、世界レベルでのDIDの分類に関して、ひとつの示唆が与えられることになる。それはDIDを「憑依タイプ」と、「非・憑依タイプ」とに分けるという考えである。ただし両者は決して排他的ではない。私たちが「通常」のDIDと理解しているのは「非・憑依タイプ」に属するであろうが、それらのケースでも憑依体験を持つ事は少なくない。Colin Rossはある欧米のデータで、60%近くのDIDの患者が、憑依された、という感覚を訴えたという(Ross CA. 2011. Possession experiences in dissociative identity disorder: a preliminary study. J. Trauma Dissociation 12:393400)。
 さてこの両タイプがいずれもDIDである以上、このタイプが分かれる一番重要なファクターは社会文化的な環境であるということになる。憑依タイプのDIDが見られるのは、アメリカではある種の原理主義的な宗教の信者、ないしは南アジアの文化などであるという。そこでは憑依をしてくるものは「現実」のものとして体験されることになる。特に正常な状態での憑依体験を重視している宗派の場合はその傾向は顕著になる。そうなると憑依型のDIDの割合も当然高くなることが予想される。それに比べて非・憑依タイプの場合は、異なるアイデンティティとして選択されるのは、自分の人生のあるひとつの段階(子供時代)ないしは役割(加害者、保護者など)であるという。
 ただしこの点に関して Spiegelは重要なことを述べている。憑依タイプを提唱するからといって、憑依現象は現実であるということではないということである(Dissociative Disorders in DSM-5, 2013)。それは非・憑依タイプに老いて彼らの中に異なる人が存在するというわけではないのと同様であるという。あくまでも個人の体験としてそうなのである。
ここで私自身のコメントを加えておきたい。憑依という現象が社会に広く見られている場合には、当然のごとく憑依性のDIDが生じやすいであろう。しかしそのような文化的な影響を必ずしも受けていなくても憑依が起きる場合がある。私のある患者はある悩みを抱えて相談した人に「神が憑いている」といわれたことからそれを実感するようになったという。別の方はDIDの発症が、あたかも体の後ろから誰かに侵入された、と感じたという。これらの例まで患者のおかれた文化的な体験として説明することはできないだろう。
ところでDIDの「憑依タイプ」が提唱されることで、憑依の患者はDDNOSからDIDに「格上げ」され、より適切な治療が受けられるであろうか?おそらくそうであろう。そして従来は憑依されたと訴える人たちに対する治療には二の足を踏んでいた治療者たちも、より治療に積極的になるであろう。これはわかる。私もふとそのような訴えの人に、「この方は浄霊師さんにお願いしようか?」と一瞬考えてしまうことがある。

Spegel (ibid)によれば民間の「ヒーラー」によるセッションも、多くの点でDIDの治療者に似ていて、実際に患者さんの助けとなっているという。つまり異なる人格状態に対してその発言の場を与え、その窮状を話してもらうことで少しずつその人格状態のあり方が改善していくことを期待するという方針が取られるのである。しかしその一方では、一部のヒーラーたちは、いわゆるエクソシズム(悪魔払い)的な扱いにより憑依のケースを扱うことで、多くの方々に悪化が見られるという。悪魔払いを受けた人の三分の二がより状態が悪化し、自殺企図や入院、症状の悪化が見られるというデータが挙げられている。そしてそのような状態になった人たちのより正しい治療により、症状が改善すると言われる。