2013年5月15日水曜日

精神療法から見た森田療法 (8)



とらわれから逃れることはできるのか?

愚直なまでに謙虚だった西郷隆盛。道を譲るように乱暴に要求されてすごすご引き下がった西郷隆盛。彼に「とらわれ」はなかったのか?ここで「とらわれ」という言葉を使わせてもらうが、私がここで言う「とらわれ」とは日常の些事において、死すべき運命にある自分がたまたま生きていられる事の幸せに鑑みてそれを受け入れる、ということができない状態、生に執着している状態ということを意味するものとする。池波正太郎の描く西郷隆盛は身なりに一切かまわず、政務につく際にも、破れた衣服から体の一部がのぞいでいるのを注意されるほどであったという。でも現在の世の中でいかに清廉潔白な人間でも西郷のような身なりをする人はいないだろう。
私は実は20代後半で社会に出るまでは「これほど身だしなみを気にしない人間がいるのか?」と呆れられることがよくあった。(もちろん自分では気にならなかった。)でも死は怖かった。結婚したら神さんが事実上の風紀係になり、身だしなみはかなり改善されたと思う。今の私はジャケットの上のボタンが取れそうになっていると、それを苦にしてうちの風紀係に改めて付け直してもらうほどだ。それほど身だしなみに関する些事にクヨクヨするようになり、いわばとらわれが増した私だが、死は昔ほど怖くはなくなっている。
私は清廉潔白に生きと思うが、ジャケットのボタンがぶらんぶらんしているのはコマる。ボタンがポロッと落ちた瞬間に、「こうして生きていられて、身にまとうものがあるだけで幸せじゃないか。ボタンの一つや二つが取れただけで、何をくよくよしているんだ・・・・」とはならない。西郷ドンならそう考えただろうか? 私は永久に西郷隆盛のような人間になれないのだろうか?
当たり前の話だが、生きることは、つまりこの現実の世界で呼吸をし、人と交わり、仕事をすることは、とらわれを引き受けることでもある。とらわれは私たちが日常レベルで体験する快不快にかかわる。とらわれから解放されるためには、通常私たちが感じる快不快のスイッチを切ることが出来なくてはならない。しかしそれは不可能なことなのだ。もしスイッチを切ったとしたら、それこそ死を背景にしてより鮮明に感じられるはずの生きている充足感もまた奪われてしまうだろう。結論から言えば、「おい、じじい」と百姓に呼ばれ、引き返すように言われた西郷は、一瞬ムッとしたはずなのだ。崖の細道を引き返すのは骨が折れる。西郷ドンだって人間だからそれを苦痛に感じ、「えーい、面倒な」くらいは思ったはずである。しかしそこからの立ち直りは恐ろしく速いのであろう。あっという間に「なーに、自分が引き返せばそれで済むこと・…」となる。
結論から言えば、とらわれから永遠に解放されることは、生きている限りはない。生きることは捉われることなのだ。問題はどれだかとらわれから身軽でいられるのか、恬淡としていられるかということなのである。