2013年5月13日月曜日

精神療法から見た森田療法 (6)



私は故・多田富雄先生の「寡黙なる巨人」を読んで大きな影響を受けた。彼は60代の終わりに脳こうそくを患い、仮性球麻痺といわれる状態になり、ひと口の水にも「溺れる」までに嚥下機能が低下する。それから懸命のリハビリが始まるが、その半ばにして今度は前立腺癌に冒されて結局世を去る。私は読みながら何度も彼の体験を自分の身に引きつけて考えた。誰でも彼のような病魔に侵されれば、物を飲み込むということすらできなくなり、「冷たい水を飲む」などごく当たり前のことのできる人が限りなくうらやましくなる。もし私たちが想像力を働かせてただ先生のような状態になったイメージを持てたなら、普通に生きて生活をしていることだけでも大満足になるだろう。
ただし私たちはそれを容易にはできないのも事実である。脳梗塞の苦しみについて克明に描かれた「寡黙なる巨人」は、それをより生々しく想像する上で大きな助けとなるであろう。そして確かにこの本を読むと、多くの読者は自分がいかに恵まれた境遇にあるかを知るのだ。ただし多くの場合、それは独語の一瞬で終わってしまうかもしれない。
私たちが一瞬の幸福感を忘れてしまうのは、例えば自分が多田先生のような状況になるという可能性を考えた場合、それが極めて低いという事実を認識するからだ。実際に脳こうそくになる確率は高くはなく、彼のような球麻痺症状を呈する確率はさらに低くなるだろう。それが自分に起きるという実感を持つことは難しい。そのうちにすぐ現実は押し寄せてくる。「寡黙なる巨人」を読んで自分がいかに恵まれているかを実感した直後には、もう日常で生じる些細な出来事が私たちを苛む。横断歩道が見えてくると、すぐ青信号が点滅を始める。シャツのボタンは取れかかって応急処置が必要だ。雲行きが悪くなり、外出前に出したままの洗濯物が急に気になってくる・・・・。(先日、現実とは身体に囚われの身になっているといったが、こうあげてみると、身体を含めた現実の具体的な事情に囚われている、と言い代えた方がよさそうだ。)生きるとは要するにそういうことだ。
私たちが多田先生のように脳梗塞にさいなまれる可能性はおそらく低い。しかし私たちが将来死ぬことは確実な出来事である。(←将来画期的な研究がなされ、テロメアの短縮が起こらない生命体が出来たら、ひょっとすると不老不死ということもありうるのかもしれないが・・・・)しかもまじかに迫った死という状況を本当の意味で覚悟をした時から、おそらく少なくともいま生きていることそのものが喜びを感じさせることになるかもしれない。するともはや日常の些事にもあまり惑わされることはないのかもしれない。信号はいつでも待つ気になれるし、ボタンが一つくらいとれていても愛嬌に思えるし、洗濯物がぬれても、そのままほっておいて明日乾いてから取り込めばいいように思えるのかもしれない。とすると、私たちが生の喜びをそのまま享受することができず、日常の些事におぼれているのは、この死する運命mortality を生き生きと感じる機会を持つことなく、むしろそれを否認していることにはならないだろうか?
この間ブログで紹介した「人斬り半次郎」(賊将編)に、西郷隆盛が何度も登場するが、彼も半次郎(のちの桐野利秋、陸軍少将)も死を恐れない人間として描かれている。その西郷の描写に次のようなものがあった。(と書いても、うちに帰って調べなきゃ、引用ができない。明日に回そう。)