2013年5月10日金曜日

精神療法から見た森田療法 (3)



 Hoffman言わせれば、私たちの存在そのものが二つの世界の相克の中にあり、それは基本的には生と死との相克に帰着することになる。自分は死ぬことはないという幻の世界と、自分はいずれは死ぬという現実の世界とに人間は常に引き裂かれる運命にある。ただしここでの幻と現実、という言葉の使い方は少し紛らわしい。一般の人にとって、現実の毎日こそ、死や関係性の終わりを忘れさせるものだから。そして関係の終わりや死はむしろ遠い世界で起きること、いわば一種の幻のように感じるのである。私は森田的には死を忘れた現実こそが、森田の言う捉われだと思うのだが。まあ、それはいいとして。
ちょっと古い言葉を用いると、今現在の世界としての「現世」と未来永劫に続く「常世」の間に私たちはある。私たちはその二つの間をさまよっているのだ。そのさまよい方は複雑だ。現在の世にありながら、常世を信じる。現在に没頭すればするほどだ。ところが現世が反映しているはずの現実とは、死すべき運命に他ならないのである。
私たちは死ぬことを頭では知っている。しかし今生き、呼吸をし、心地よさや眠気を感じ、時には急に襲う腹痛におびえるのは私たちの身体のせいであり、生きている限りはこの身体から逃れることが出来ない。身体は今現実の苦痛の除去や心地よさの追求を止めることはない以上、私たちに生への没頭を強いるのだ。死すべき運命にあることはわかっていても、生に忙しくてそれどころではないのである。
たとえば明日自殺することを覚悟したとする。それでもお腹が空いてきて、食べ物がほしくなる。あるいは疲れてくれば横になりたくなる。あるいはパニック発作に襲われて救急車を呼びたくなるかもしれない。明日は死ぬのに、である。