2013年5月25日土曜日

精神療法から見た森田療法 (19)



今日から口調が変る。
私が森田療法に対して抱いている親近感はどこから来るのかを考えながら、この発表内容を考えました(ナンの話だ?)。最初に私の精神分析的な考え方の推移と、その中から出てきた「治療的柔構造」ないしは「メタスキル」の考えについて述べたいと思います。
 私は経歴上はアメリカで精神科医として働きつつ、精神分析の正式なトレーニングを積み、精神分析家としての資格を取得して帰国したということになっています。そしてさまざまな意味で本場のアメリカで本格的な分析家たちの姿を見れたと言うことはよかったと思います。すくなくとも「これは本当の精神分析なんだろうか?」と考えるときに「正真正銘の精神分析家がどのように考え、治療を行なっているか」についての参照枠が得られたからです。そうでないといつまでも「本場のアメリカでの精神分析はこんなもんじゃない」と言うような考えと永遠に戦っていかなくてはならないからです。そしてその家庭で自分自身の精神分析観が出来上がってきたのですが、それは伝統的な精神分析のスタイルからはかなり変ったもの、現在のアメリカの関係精神分析という流れに近いものになっていったという経緯があります。
 私がアメリカでの精神科医として、そして精神分析家のキャンディデイトとして体験したことはたくさんありますが、一番大事なことは、治療プロセスは、基本的には予想不可能であると言うことです。それは患者さんとの関係性にしても、患者さんが日常体験することにしても、そして薬物の効果にしてもです。私たち臨床家は一生懸命精神医学を勉強して、分析理論を勉強し、患者さんのヒストリーを詳細にとってその動きをつかもうとする。でも結局はわかりきれない。私はそこに二つの理由があるように思いました。一つには私たちが患者さんをわかろうと言う願望に歯止めが利かないからです。だから少しわかると、今度はもっとわかろうとして、結局わからないところまで行き着いてそれから先にいけないということがあります。それからもう一つは、私たちが非常に強いスプリッティングの傾向を有し、その結果として日常的に患者を、そして自分たちをABかの考えに押し込めようとする傾向です。私が精神分析の理論を学んでいて一番窮屈に感じたのは、それが心というつかみどころのないものを懸命に説明し、公式に当てはめようとして、しかもそれがうまく行っていないという印象を受けたときです。ただしもちろんこれは精神分析に限らない。認知療法にしてもDBTにしても、理論がこみいればこみいるほど現実の臨床と離れていく。森田理論の話をしていて、結局理屈ではなく、一種の「姿勢」ないしは「世界観」だと理解すると納得した、というあの話ともつながります。
治療原則への疑問
私が特に精神分析理論の中でフロイトが治療原則として掲げた匿名性、禁欲原則、受身性に疑問を持ったことはすでに述べました。