2013年5月16日木曜日

精神療法から見た森田療法 (10)



  何かもうあまり出てこなくなりつつある。議論はこれから先堂々めぐりになる気がする。これまでの主張を簡単にまとめればこういうことだ。Hoffman の言うとおり、人間は生きている限り、トラ我(←究極の変換ミス。もとい)とらわれから逃れられない。とらわれとは、刻一刻と生きていることとほぼ同義だからである。(死ぬ瞬間まで、私はジャケットのボタンがブラブラしているのがいやだ。死刑執行の直前になっても、受刑者は頬に止まろうとするハエを追うだろう、など。) あるいはとらわれを「葛藤」と言い換えるならば、それは期待と失望、不安からなるが、それからも逃れることが出来ない。人は生きている限りは未来に向かって何かを期待することをやめないからだ。(せめて苦しまずに逝きたい…、など)。その意味ではいかに死を覚悟しようとも、「精神的な苦痛」から自由になることが出来ない。「常世」には生きている限りはけっして到達できないのだ。それこそ洗脳でもされない限り。「精神的な苦痛」は生きている限り私たちをさいなむ。私たちはそれを「精神的な労働」へと変換することしか出来ない・・・・。
ここら辺で中村敬先生の力を借りる。「森田療法のスキルとは」精神科、21(3):302-306、2012の論文を読んでみる。
中村先生は、森田療法によれば、神経症は「とらわれの機制」に由来するとする。とらわれとは、森田療法的には、心臓のドキドキをなくそうとして注意を向けるとかえってドキドキする、赤面すまいとするとかえってするという心の働きで、これが「精神交互作用」と呼ばれるものだ。そこでとらわれを打破する為に「あるがまま」の心的態度を導くことになる。それは基本的には症状を排除しようとするはからいをやめること、つまり注意を払わないことであり、「不安の裏にある生の欲望を建設的な行動として発揮する」ということであるという。
ここまでが中村論文の冒頭の「はじめに」という部分のさわりだ。ここの下線の部分、実は私にはイマイチわからないところだ。もちろんこの種の説明はこれまでに何度か読んだことがある。森田療法の基本中の基本、というよりは公式のようなもので、ここら辺のロジックをいじってはいけません、みたいな。憲法の条文みたいだなものかもしれない。とりあえずここはそのまま受け入れて先に行こう。とにかく森田のキーワードは、「とらわれからあるがままへ」、である。