2013年4月25日木曜日

DSM-5と解離性障害(22)

今日は気持ちのいい天気である。4月に入ってから授業も始まり、何かと忙しい。なんとなく夏休み(つまり前期の授業の終わり)が待ち遠しい。教員になってからまた夏が楽しみになった。と云って仕事が休みになるわけではないが。


VDH先生の論文は、さすがに根っからの解離屋さんだけあって、色々本音が聞ける。ちょっと大阪弁風に書いてみよう。

だいたいDSMには三つの問題があるんや。それをDSM-5でも繰り返そうとしておる。一つ目は、解離という概念自体の捉え方があいまいでいいかげんなのや。二つ目はPTSDと解離性障害を別物として扱っている点、三つ目は身体症状を精神症状も別物として扱っているという問題やな。そもそも1968年のDSM-IIがいかんかったんや。まあずいぶん昔の話やから、かなりええ加減な分類だったんやけど、そもそもそこに登場した「ヒステリー神経症hysterical neurosis」という概念が問題だったんや。だいたいヒステリーちゅう言葉を使ってるのも気に食わんのやが、まあそれはええわ。それを「解離タイプ」と「転換タイプ」に分けた、ちゅうわけやが、あれがまちがいや。だいたいやね、そうやって分けるということは、解離と転換は別々のもの、ちゅうこっちゃろ? 体と心の分離や。デカルトの犯した過ちや。それいらい、DSMはその伝統を受け継いでここまで来たんや。そしてDSM-5になっても、性懲りもなく体と心を分ける伝統を保っとる。そやさかい、わしは他の二人の仲間と組んで、構造性解離理論ちゅうのを作ったんや。我ながら結構苦労したんやで。ニューエンフイスはんは特に精神表現性解離、身体表現性という分け方を提唱しはったんやが、上手いこというたな。さすがイケ面のエラートや(注:ニューエンフイス先生のファーストネーム)。
 もうちょっと構造的解離理論について説明するで。コリャーごっつい理論やで。何しろトラウマちゅうもんを幅広―くとらえてそれによって心に起きた問題全体をひっくるめて解離の病理としたんや。大胆やろ? そしてその最もシンプルなものをPTSD、もっとも複雑なものをDIDとして、そこに連続体を考えたんや。スペクトラム、ちゅうわけやな。
 だいたいやな、うちらはDSM-IVの解離の定義自体がおかしいおもうとるねん。「通常統合されているはずの意識、記憶、アイデンティティ、知覚が障害を受けている」と書いとるやろ。身体運動や感覚はどうなるねん。それらも入れにゃあ、あかんがな。

実は私は大阪弁を話せないので、以上は「偽りの自己」モードで書いている。おかしな言い回しもきっとしているだろう。