2013年3月22日金曜日

精神分析と家族療法(5)


恋愛はマイルールを無力化するための装置である

昨夜は不思議な夢を見た。久しぶりに「恋愛もの」である。きっとこのところ書いていることと関係していたのだろう。そこで思ったのだが、家族療法の面白さは、私の場合は実は恋愛と関係がある。家族の間の葛藤、特に夫婦の間に関しては、恋愛のプロセスの裏返しというところがあるのだ。家族の面白さは、そこに「遠慮」が不足、ないし欠如していることからくる。というよりは互いの遠慮の仕方にどうしようもないずれが生じる、ということか。劇団ひとりのエピソードの面白さは、そこに示したような会話が、おそらく彼らが恋愛関係に入った時はおよそ考えられないようなものだということである。(まあ、恋愛状態にありながら、ショーもない喧嘩をするカップルもいるか。)
恋愛状態とは実に不思議である。一種の狂気だ。あるいは魔術、くらいにしておこうか。何しろパートナーの脱ぎ捨てた丸まった靴下さえも、いとおしく思えるのである。(結婚したらそのうち不潔に見えるようになるわけだが、これは「正気」に戻っただけである。) その狂気の中で最初の夫婦の絆が結ばれる。これからずっと一緒に居よう、というわけだ。別れるなんてありえない。関係を継続する理由もいらない。相手のことはすべて受け入れる。唯一の例外は、相手が自分以外のほかの誰かと幸せになる、という可能性である。二人は一生懸命巣作りをする。小作りに精を出す。
ここら辺までのプロセスは、お互いのマイルールが抵触しない形で起きる。実に不思議な現象だ。そう、巣作りをするためには、マイルールにこだわるわけにはいかない。いつも一緒に居間で、寝室で過ごすのが楽しい、二人の間に境界などない、という全く別の条件が成立していないと、そんなことはできないはずだ。恋愛とはマイルールを無力化するための装置といってもいい。
さて狂気、じゃない魔術からそのうち覚める(どんなに長くても一年半、というデータがある。) ふと気が付くと、二人はよくわからない赤の他人といることに気が付く。「いったいこの人はなんなんだろう?おかしなルールばかりにこだわって、わけがわからない。」恋愛時代は、「君ほど僕のことを分かってくれる人はいない」「あなたもよ。」とか言っていた二人が、実はお互いに幻を見ていたことに気が付く。そしてふと我に返り、本来一番大事なはずの自分の生活、そのためのマイルールを思い出す。そしてそれを全然理解しようともしない相手との確執が始まる。