2013年3月21日木曜日

精神分析と家族療法(4)


マイルールについて

マイルールという言葉。グーグルで検索しても大したものが出てこない。ということは、私の造語、ということでこのまま使ってもいいか。私が強調したいのは、このマイルールは、基本的には他人には理解不可能、ということなのである。マイルールは、他人にはわかってもらえない、という前提で運用しなくてはならない。また他人のマイルールはわからなくてもいい、ということでもある。ただしわからないからこそ、他人のマイルールは尊重しなくてはならない。マイルールとは、一種の言語のようなものだ。あなたが配偶者に何度言っても通じないことがあるとする。それはそうだ。配偶者は別の言語を使っているからだ。(逆に恋愛関係にある男女は、それぞれ言葉が通じなくてもカップルとして成立する。ただしこれは実際の言語の話。) 同居している二者の関係は、国境を接している二国のようなところがある。それはお互いの近接性を回避することができないからだ。つねにボーダーラインが存在している。そこではマイルールが異なることからくる紛争が起きる。
マイルールはお互いに通じ合わない、といったが、それは生理的な反応が関係しているからである。例えばあなたが男性で、うちに帰った後靴下を脱いで、居間にそのままにしておく。奥さんは、丸まったその靴下を見て、嫌悪感を覚えるかもしれない。そういうものである。マイルールの通じ合わなさには、自己と他者の区別からくる不潔感が関与する。他人が脱いだ、丸まった靴下は汚い。洗面台に落ちている髪の毛は汚い。ただし配偶者のものについてである。それが実は自分のものだと気が付いたときにスイッチが切り替わる。それは親近感のあるもの、ほほえましいものにすらなるのだ。
 ちなみに私は丸まった靴下をほっておくということはない。自分の靴下が汚らしい目で誰かにみられる、ということは耐えられないし、そう思ってみると自分の靴下と分かっていても汚らしく見える。(しかしそれでも相当汚いものをまき散らしているようである。)
靴下に関しては、面白い体験をしたことがある。息子が小さかった頃、彼が脱いだ靴下が丸まってリビングに転がっていた。すると一瞬だがそれを「かわいい」と思ったのである。これって母親が息子に持つ寛容さと似ているのではないか、と思った。ダンナの丸まった靴下は汚い。でも自分の子供の丸まった靴下は…・「かわいい」のである。やはりこれでないと、子育ては無理だ。
 ところで、では息子と母親の同居生活はそれだけ安全に行くのだろうか?なかなかそうはいかない。私の知っているケースでは、息子が暴君になり、母親がそれに従うというパターンになることが多そうである。しかし息子の横暴さにつきあう母親は、どこかで「しょうがないな」と思っているようなニュアンスがある。やはり小さいころの靴下クルクルがかわいかった影響は大きいのだ。親というものは成人した子供を見ても、子供時代の様子をいつでも二重写しできるのだ。