2013年2月25日月曜日

パーソナリティ障害を問い直す(14)

「解」を読み進める(12
 31番目の章(実際には第7)「報道との矛盾について」は、KTが「事件」後に自分に関する報道に接して感じたことについて書いている。彼は取り調べを受けている間は外部との接触は一切なかったために、起訴後に様々な報道を知ることになったが、「結論から書くと、事件報道はほとんど嘘です」という。そのあとに幾つかの「嘘」の報道の例が挙げられているが、それほど説得力は感じられない。YOMIURI ONLINE が報じた「たとえば『人を殺すために秋葉原に来た。誰でもよかった』などと供述している。」という部分についてKTは「それはそのような供述調書が作成された」と主張し、実際には彼自身が正確にそう述べたわけではないとする。うーん、この辺は些末な議論という気がする。だいたい彼はこんなことに文句が言える立場だろうか?100%相手のせいにするという傾向は健在という気がする。
 「解」も残すところ数十ページであるが、この最後の数章で述べられていることは、掲示板上でのやり取りの詳細と、KTが「再発防止」として提示するいくつかのアイデアである。新しい情報は少なくなり、彼の心の中で生じたことについての情報はだいたい出そろったという印象を持つ。その中で彼が述べる防止策に特に注目したい。
 まずKTが「事件」の原因として3つあると自己分析している部分があるが、彼の思考を確かめる上で参考になる。それらは彼が掲示板に依存していたこと、掲示板でのトラブル、そしてトラブル時のものの考え方(間違った考え方を改めさせるために…という例の思考)である。そしてこれら3つが重なることで「事件」は起き、防止策はそれを防ぐこと、という風に説明される。ここで一つ気が付くのは、これらの問題はあたかも彼の行動や思考上の誤りとして説明されているが、そこに感情の要素が言及されていないことだ。
 「対策とは」36番目の章の冒頭で、KTはこう述べる。あくまでも再発を防止しなくてはならないのは、「むしゃくしゃして誰でもいいから人を殺したくなった人が起こす無差別殺傷事件」ではなく、「一線を越えた手段で相手に痛みを与え、その痛みで相手の間違った考え方を改めさせようとする事件」であるという。つまり彼の起こした「事件」は後者であり、そこに怒りやそれに任せた殺傷という要素を否定するのだ。そして「ふつうは事件なんか起こさない、という言われ方」に反対し、「普通か否かは思いとどまる理由の有無でしかない」という。KTのこの主張は、「事件」に至った経緯にはある種の必然性の連鎖があり、それがたまたま途中で中断されることがなかったために「ドミノ倒しのよう」に最後の「事件」に行きついたというものである。そしてそのような事態は、彼が挙げた三つの誤りを犯し、そのプロセスを止められない場合には、ほかの誰にも生じうるというニュアンスがある。
 そのプロセスを止めるために必要な策としてKTが挙げているのが「社会との接点を確保しておくこと」であるという。そしてさらに具体的には、ボランティア活動を行ったり、サークルや教室に通ったり、何かの宗教に入信することであるという。さらには「自分の店を持てば『客のために』と、社会との接点を作ることが出来ます」という。