2013年2月24日日曜日

パーソナリティ障害を問い直す(13) 

「解」を読み進める(11
  26番目の章「懲役より死刑を選ぶ」から30番目の「『してはいけない』意識と無意識」の章までは、「事件」に至ったKTの心の動きについての説明が続く。いわば「解」の核心部分と言っていい。ここで彼が繰り返し語っているのは、秋葉原の通行人は他人であり、「『どうでもいい』とすら思わない、何かを考える対象から外れてしまっていました」という事実である。これがなぜ彼が人を殺めるという行為に至ったかの自分自身の説明である。これは(7)にも書いた、彼の内的対象像の特徴とも関係する。彼が個人的なつながりを持たない「人」は、内的対象として極めて希薄な存在感しか持たない。それはKTにとっては「人」としてすら感じられない可能性がある。
「解」から引用しよう。
「たとえば普通の人はニュースで事故などを知ると犠牲者のことを考えて心を痛めるようなのですが、私は特になんとも思いません。他人だからです。一方、友人が車で事故を起こした、と聞くと、友人が無傷あっても心配になりますし、仕事でけがをした、と聞くと、週に23回も見舞いに行きます。」
  つまり彼と直接かかわりを持たない人は、単なるもの、あるいはそれ以下のものとしてしか感じられていない可能性がある。それをKTは「守備範囲の狭さ」という言葉で表現している。つまり相手の身になることのできる人の範囲が非常に限られているという意味である。
  ところで人を人と感じない、という現象は通常の人間にもある程度は起きることは確認しておきたい。たとえば振り込め詐欺を繰り返す集団の構成員はすべてが反社会性格というわけではないだろう。中には生活のためと割り切って仕方なくその稼業に手を染めている人もいるだろうし、その人は老人から何百万も巻き上げながらも、一生懸命相手を人と見ないようにしているはずだ。そうしないと罪悪感で「仕事」を続けられないだろうからだ。さらに私たちの多くは地球の裏側で多くの人々が餓死し、あるいは戦乱で命を落としていることにほとんど頓着せずに生きている。これだって人を人と感じないということを間接的に行っていることになろう。
 ここで対象を人から動物一般に広げたとしたら、むしろそれを生きている存在として認識しないことの方が普通な場合が多い。そうでないと日常生活はおよそ不可能になってしまうだろう。ビーフカレーの中に入っている牛肉の塊を牛の死体の一部として認識し、その牛が殺される光景を生々しく思い浮かべることは、通常の人にはあり得ないのだ。
  そこで考えてみる。KTの問題をこの、人と人と感じないという性質の延長線上としてとらえることが出来るのだろうか? それはできない、というのが私の結論である。私たちが人を人と、生き物を生き物と思わないのは、その人や動物が苦しむ場面を実感できない限りにおいてなのだ。ビーフカレーを何の葛藤もなく頬張る人も、牛が屠殺場で殺されるシーンを見せられた後は食欲をなくすはずだ。人を人と思わない心の機制は通常はこの種の否認と考えられ、それは実際の相手の苦しみを実感するような状況では有効性を失う。
 ところがKTは異なる。刃物を実際の人間に何度も振り下ろしたのだ。それが実行できてしまい、しかも「解」の中にいまだに自分の行為に対する恐怖や信じがたさや嫌悪の記述がみられないということがKTの一番の病理なのである。