2013年2月23日土曜日

パーソナリティ障害を問い直す(12) 


「解」を読み進める(10

昨日のブログは昼休みに書いたものだが、実は肝心の「解」を家に忘れたためにうろ覚えの内容だった。(一部は後で確かめて付け足した。)しかしその方がかえって細部にこだわらずに書けたことと、 少し“解”(「解」との区別で、こう表記することにした)に近づけた気がした。「KTは虐待の犠牲者だったのか?」という、本来は浮かんではいけないはずの考えまで浮かぶ。もちろん「KTの引き起こした事件は結局彼が受けた虐待が原因です」とは決してならないが、“解”の文脈の一本の糸とはなりうる気がする。とにかく一歩進んだ感じ。
20章めの「ツナギ事件」は、職場で朝彼のツナギがロッカーで見つからなかったことに反応したKTが衝動的に仕事を辞めたエピソードで、「事件」の3日前の6月5日のことである。一般には「事件」の引き金になった出来事と考えられるようだし、私もそう理解していたが、「解」によれば必ずしもそうではない。すでにほぼ決行が決まっていた「事件」を止めていたものがいよいよなくなったということだ。KT細かな心の動きが描写されていて、一つ一つ紹介すればきりがないが、それなりにフォローできる部分が多い。
 興味深いのは、職場を辞めることで、彼の心の世界には、彼となりすましの二人しか残っていなかったという記述である。なりすましもネガティブな意味では彼にかかわっている。だから孤立ではなく、自殺もする必要がなかった。そのかわり彼の世界には自分となりすまししかいず、それとのかかわりに入ってしまい、袋小路に陥ったという観がある。
 いずれにせよKTの世界には彼と正体不明の成りすまししか存在しえず、それ以外にはこれから彼が殺傷しようとする何人かの罪もない人々も含めて、生身の人間としては存在しなかった。だからどのような残酷なことも、彼にはできたということが言えよう。それが彼のロジックであり、体験であった。月並みな比喩だが、彼にとって自分がこれから起こす殺戮は、ゲーム感覚だったのであろう。ゲームで人を撃つことは罪悪感を起こさないが、それは、本当(リアル)の人ではないからだ。だから「事件」に至る此処までの経緯を読んでも、殺される人の心を思いはかる言葉は全然出てこないのである。あたかも彼の世界では自分と成りすまししか存在せず、あとはぼんやりとした背景に退いているかのようだ。それでいて彼の文章には、これから起こす「事件」が、彼が知っている人に迷惑をかけるのではないか、というたぐいの記述は残している。彼が直接かかわった人間は多少なりとも現実の部類に属し、共感や配慮や遠慮の念は及んだのだろう。しかしそれ以外の不特定多数の人に対する同様の感情は一切起きていないかのようなのだ。
23番目、および24番目の章「突入」「刺突」はKT68日の1233分、歩行者天国中の実際に秋葉原にトラックを乗り入れて人をはね、刃物で何人かを死傷させた時のシーンを記載している。トラックを運転していた彼はなかなか決行するチャンスをつかめず、同じ交差点を何度も通過する。そして「4回目に交差点に向かうときには、心を殺していました。」とある。そして歩行者の列に突っ込んでいったのだ。
これから先の描写は控えるが、一番気になる点。刃物で何人もの人を殺めるということがどうしてできたのか?人間の心がなかったのか?
 もともとKTは暴力行為に走ったという前科があるわけではない。もちろん衝動的な会社の辞め方などは繰り返してきたわけであるが、彼が特別反社会的だったり、暴行傷害を繰り返してきたり、というわけではない。それがどうしてそのような暴力行為の極限ともいえる行為に走ることができたのか?
まだ本書を三分の一以上検討し残している以上(もちろん通し読みは済ませてあるが)最終的な結論はまだ出ないのだが、結局は「わからない」としか言えない。彼の行為の描写からは、歩行者をひき、通行人を刺殺した際に体験するはずの激しい情動は描かれていない。「心を殺して」いたからかもしれないし、上にも書いたようにゲーム感覚だったのかもしれない。それは冷酷な行為だったともいえるし、心を殺して冷酷になることでしかなしえない行為だったということもできる。少なくとも快楽殺人にみられるような、殺す際の性的な快感を味わったという記載は見られないのである。