2013年2月28日木曜日

パーソナリティ障害を問い直す(17) 


「解」を読み進める(15

それにしてもこのダラダラした考察を続けることができるのは、このブログのおかげである。どうせ誰も最後までは読まないだろうが、ひょっとしたらひとりくらいには読まれているかもしれないから少しちゃんと書こう、くらいの緊張感がちょうどいいのである。

KTのアスペルガー問題

KTの精神鑑定の進捗状況はわからないが、アスペルガー障害ないしは広汎性発達障碍(PDD)の可能性についてはおそらく問われることになるであろう。ところがこれは実は微妙な問題をはらむ。
以下に参考のためにDSM-IVの診断基準を示そう。
A.以下の少なくとも2つで示される、社会的相互作用における質的な異常
1
視線を合せること、表情、身体の姿勢やジェスチャーなどの多くの非言語的行動を、社会的相互作用を統制するために使用することの著しい障害
2
発達水準相応の友達関係をつくれない
3
喜びや、興味または達成したことを他人と分かち合うことを自発的に求めることがない(たとえば、関心あるものを見せたり、持ってきたり、示したりすることがない)
4
社会的または情緒的な相互性の欠如
B
.以下の少なくとも1つで示されるような、制限された反復的で常同的な、行動、興味および活動のパターン
1
ひとつ以上の常同的で制限された、程度や対象において異常な興味のパターンへのとらわれ
2
特定の機能的でない日課や儀式への明白に柔軟性のない執着
3
常同的で反復的な運動の習癖(たとえば、手や指をひらひらさせたりねじったり、または身体全体の複雑な運動)
4
物の一部への持続的なとらわれ

おそらくKTはこれらの基準を十分に満たさない可能性がある。少なくとも[解]から私たちが知る限り、彼は学校を卒業するまでは、「常に友達と一緒に過ごしていた」ことになっているのである。もし彼が「A2発達水準相応の友達を作れない」としたら、そのような状況が継続していたとは考えられない。彼の社会的な孤立は学生時代のかなり早期から起きていたはずである。またKTの記述からは、かなり友達にサービス精神を発揮し、友達が喜ぶのであれば自己犠牲的に物や情報を提供していた様子が伺える。
 「A3 喜びや、興味または達成したことを他人と分かち合うことを自発的に求めることがない」については、それどころか、自分の趣味に関することではあるが、それらを積極的に友達と分かち合うことで、孤立を避けていた可能性がある。Bの「制限された反復的で常同的な、行動、興味および活動のパターン」については不明である。KTはインターネットでのゲーム等に精通しているようであり、その意味ではこのBを満たしている可能性はあるが、それを積極的に疑わせるようなエピソードはその手記(「解」)を読んでも特別浮かび上がってこない。むしろKTの頭にあったのは、いかに他人との交流を保ち続けるか、いかにそのために他人の関心を保ち続けるかと言うことにあったといっていい。
さてそれではKTはアスペルガー障害ではなかったかといえば、「私の理解するアスペルガー障害」には合致する面があるのである。そこでこの「私の理解するアスペルガー障害」について考えてみたい。
私はアスペルガー障害の主たる病理は、共感性の障害であると理解している。共感性とは相手の気持ちを感じ取る能力である。目の前にいる人の喜びや痛みを自分の心に移して感じ取る力。他人を精神的身体的に傷つけることに対する抵抗もそこから来る。人を傷つけることは、自分でも「痛い」ことなのだ。逆に相手の喜びは自分のものとして感じることが出来るために、相手を喜ばせ、心地よくさせることも自然に行なうことができる。そうやって対人関係が成立し、継続していく。
 共感能力には、相手が「考えていること」もその対象に含む。私たちがコミュニケーションをする際、相手が何を思って話しかけてきているのかを直感的に感じ取ることが出来、それに対応することが出来る。それが出来ないと「空気が読めない」ということになり、集団から仲間はずれになる。
KTの病理を考えるとき、ここで精神医学の専門家は引っかかることになる。彼の手記には、彼が友達づきあいをし、時には人にサービスをする為に自己犠牲精神を発揮することをいとわない点に注目し、この種の共感能力は不足していないのではないかと考える。その点は私も同様であり、したがってアスペルガー障害の診断というラベルも「貼りつき」にくい。そのためにPDDNOSあたりが無難ではないかと思う。これは「他に分類されない広汎性発達障害」を意味し、いわばアスペルガーもどきとしてその病理を位置づけるわけである。
特定の状況で、あるいは特定の感情について他人の気持ちが見えなくなるという病理が彼らにはあるのだろうか?おそらく。アスペルガー障害としての診断をつけることにあまり躊躇しないケースに関しても、さまざまな場面でさまざまな形で他人の気持ちを読み取り、感じ取ることは確かだ。アスペルガーの人たちの大部分は、対人関係を求め、それが得られないことを苦痛に感じる「寂しがり屋」である。ところがやはり彼らの対人コミュニケーションには特徴、いや欠損があるのだろう。それは彼らが持つ傾向のある猜疑心や被害念慮という形で現れる。彼らが持つのはコミュニケーションの微妙な障害なのだ。それが一見通じているようで実は通じていない対人関係を築く。人との関係の齟齬は常に生じては徐々に、あるときは劇的に拡大していく。これはどうしてだろうか?そしてこれは通常のパーソナリティ障害とどう絡んでくるのだろうか?
このあたりを探っていくことが、この今回のブログの一つのテーマなのである。


2013年2月27日水曜日

パーソナリティ障害を問い直す(16) 


「解」を読み進める(14
 KTの診断的理解
 人間の心理は複雑である。誰ひとりとして一定の決まったパターンに合致する人はいない。しかしある深刻な事件が生じた時に、私たちはそれが起きた原因を知りたがり、それを起こした犯人の心を一元的に説明しようとする。
「何かの原因があるはずだ。」
そして「解」を読み始めた私も同様に「事件」のを求めて読み進めた。しかし「解」を読み終えて、それも幻想であったことをあらためて思う。「解」そのものが様々な、一元的には説明不可能な情報を伝えているし、“解”もそれだけファジーなものである。そしてそれは私だけの“解”でしかなく、本書に登場するほかの方々の“解”もそれぞれ独自なものとなっているはずだ。(何の話だ?) ただし私自身のそれは、前もって「結局はこんな感じになるのかな」と思っていた方向に向かってはいる。
人を一元的に理解する代わりにあるのが、精神医学の診断というラベリングである。ラベリングは決めつけであり、pigeonholing (どこかの整理箱に区分けしてしまうこと)であるが、理解の役に立つ。「ラベルは、剥がすために貼るものである」と私はいつも言っているが、取りあえず貼って、貼り心地を見るだけでもいいのだ。気に食わなかったらいつでも剥がせばいい。
 その心づもりでKTの精神医学的な診断を考えてみよう。おそらくBPD (境界パーソナリティ障害) は比較的容易に当てはまるように思う。慢性的な自殺願望、孤独の耐えがたさ、攻撃性、「自分のなさ」、白か黒かの考え、感情の激しさ・・・・結構な数の診断基準を満たしている。「KTがボーダー?」と言われるかもしれないし、私も自分に「本気かな?」と問うている部分がある。しかしそれは診断がラベリングであるということを思い起こせば消える疑問である。その意味ではBPDKTに貼った場合には「結構くっ付いている」ことがわかるだろう。貼り心地の悪い部分は、他のラベルも競って貼られようとしているからだろう。
二枚目のラベルとしては、いや診断は、ASD(反社会的パーソナリティ障害)がくるだろう。しかしこれは張り付けたい気持ちの割には、剥がれやすい可能性がある。ASDは、DSM的に言えば、攻撃性、法律を遵守しないなどの違法性、人をだます傾向、良心の呵責のなさ、の4つの柱があり、これらがその人にパターン化している必要がある。このうち、法律を守らない、人をだます、という傾向はKTにはあまりその気はないのだ。むしろ借金を踏み倒さずに遠路はるばる返しにいく、というところもある。人と関係を結ぶためには正直にもなるのだ。攻撃性や良心の呵責のなさにしても、あまりすっきりとは当てはまらない。人を殴る、殺傷するなどは攻撃性の最たるものではないかと言われそうだし、それらを根拠に攻撃性の基準を満たすとしても、彼の場合パターン化したという印象がいまいちなのである。良心の呵責については、これこそは典型的といえそうだが、これ一つではASDの根拠としてはあまり説得力がない。
念のためDSM-IVASDの基準をもってこよう。
A.他人の権利を無視し侵害する広範な様式で、15歳以来起こっており以下のうち3つ(またはそれ以上)によって示される。
1. 法にかなう行動という点で社会的規範に適合しないこと。これは逮捕の原因になる行為を繰り返し行うことで示される。
2. 人をだます傾向。これは自分の利益や快楽のために嘘をつくこと、偽名を使うこと、または人をだますことを繰り返すことによって示される。
3. 衝動性または将来の計画をたてられないこと。
4. 易怒性および攻撃性。これは、身体的な喧嘩または暴力を繰り返すことによって示される。
5. 自分または他人の安全を考えない向こう見ずさ。
6. 一貫して無責任であること。これは仕事を安定して続けられない、または経済的な義務を果たさない、ということを繰り返すことによって示される。
7. 良心の呵責の欠如。これは他人を傷つけたり、いじめたり、または他人のものを盗んだりしたことに無関心であったり、それを正当化したりすることによって示される。

 どうだろうか? 1は微妙。2も微妙。3は満たして4も満たすとしよう。しかし5も微妙、6もイマイチ。7は満たす、となるとギリギリ3つとなる。いちおうASDと診断してよさそうだが、あまりラベルとしての貼り付き具合はよろしくない。粘着力が弱い。
となると3番目の診断は、アスペルガー障害である。KTの場合おそらく言語的なコミュニケーションはあまり得意でないはずだ。自分で相手に気持ちを伝えることがなく、いきなり行動、というパターンもおそらくその証左だろう。その代り文章は達者な方と言っていい。掲示板での自己表現も、その思い入れの詰まった書き方や、他人の書き込みの読み取り方の微妙なニュアンスも、かなり芸が細かい。彼の場合、アスペルガーの「さびしがり屋」型だろう。(今私が急に作った分類である。)

2013年2月26日火曜日

パーソナリティ障害を問い直す(15) 

 「解」を読み進める(13)

 KT自身の語る防止策を読むことで、ひとまず彼の主張が終わったものとして、私の感想をいくつか述べてみよう。まだ“解”には程遠いが、少しはまとまってきている気がする。
 KTの心の動きにはいくつもの病的、あるいは「普通とはいえない」傾向がみられる。しかし特に「事件」に関連して何が決定的に問題かと言えば・・・・。生身の人間をナイフで無差別的に刺殺するという行為に尽きる。あるいはもう少し言えば、そのような行為を自らが行ったということに対する彼自身の無関心さobliviousnessである。それは彼がそれなりに一生懸命取り組んだであろう「自己分析」が触れていない部分であり、病理の核心であるといえよう。
 仕事がうまく行かず、だれからも顧みられず、怒りや復讐心が高まって暴力行為に及んでしまう、ということは、ファンタジーのレベルでは多くの人が思い描く。秋葉原の事件の直後に、複数の患者が、KTの気持ちがわかると述べたこととも関連する。しかし彼らとKTとの決定的な違いは、やはりそれを実行してしまったということだ。そしてそれは彼のゆがんだ攻撃性の発露であり、そのことを彼自身が否認する傾向とも関連している。これは昨日のブログ(12)でも触れたことである。
 これに関連して、「解」ではこぐ最後の部分で、さらっと、しかし極めて重要な情報を伝えている。最終の章「反省の考え方についての補足」に触れられているエピソードだ。KTは中学生のころ、クラスメイトを思いっきり殴り、失明させる危険があったほどだったという。「私は学校の小さな部屋に閉じ込められ、次々と入れ替わる教師らに怒られ続け、『反省』しました。しかし半年後に私は、再び同じクラスメイトに対して暴力的行為をとっています。」KTはここで、自分自身は十分「反省」したが暴行を繰り返したことについて、「反省」したことこそが問題であったとする。それは問題を特定し、対策を講じることをしなかったからだという。
 なおこの暴力行為に至った経緯については興味深いので、少し長いが引用する。

 私がそのクラスメイトを殴ったのは、私が真面目にものを考えているときにちょっかいをかけてきて、私が「やめろ」という意味を込めて手で払いのけたものを無視して更にちょっかいをかけてくるその彼の間違った考え方を改めさせるために殴ったものです。今思えば、彼は私が考え事をしているとは知らず、ぼんやりと眠そうにしている私に絡んだ来たのだと思います。それを私は勝手に邪推をされていると読み、言葉で説明もせず、痛みを与えて相手の「間違った考え方」を改めさせようとしたのであり、完全に私の誤解でした。ですから、この時の私は「反省」するだけではなく、なぜ私は彼を殴ったのかを考え、原因を特定し、そこに対策をする反省をすべきでした。問題は山積みです。これは成りすましらとのトラブルとは異なり、「かっとなって」のケースなので、思いとどまる理由の有無は意味がありませんが、結局のところは、相手に嫌な思いをさせられるという条件に対して、その間違いを改めさせるための痛みを与える手段が出力されてくる条件反射を何とかしなくてはいけないのであり、中学生時点では、それが強化されてきた期間は半分の10年ですから、今よりもっと楽に上書きをしてしまえたかもしれません。
このKTの引用の中で一つ明らかな矛盾がある。それはこの中学時代にあったという殴打事件が「間違った考えを改めさせようとした」と言いながらも同時に、「かっとなって」行った行為でもあると言っている点である。KTはこのエピソードは成りすましとのトラブルとは異なると言っているが、その動因をを一緒に説明している以上は、むしろ秋葉原の「事件」が結局は「かっとなって」行った可能性を示唆しているといえないだろうか。後者の方がもちろん冷静沈着に事件を計画したという面もあろう。しかしその背後にあるのは、成りすましからの攻撃を受けて「完全にキレ」「ケータイを折りそうになった」(p142)ほどの怒りに端を発しているとみていい。そしてその部分が否認、乖離されているのだ。
 しかしKTが実際は激しい怒りを暴発させた結果がこの殺傷事件だったのだ、と説明し、その尋常でないほどの怒りをKTの病理とすべきかと言えばそうではない。通常の怒りは、それを直接起こした対象のみに向けられるのであり、しかもその相手への攻撃が反撃を引き起こし、格闘のような形で結果的に相手を殺傷してしまうという形が一番典型的と言える。しかもその怒りによる相手への怒りは、相手が傷ついたことを目にすることで急速に醒め、激しい罪悪感と自己嫌悪が襲うというのが通例である。復讐を遂げた後に自殺をするという経緯がよく見られるのはそのためであろう。KTの場合、その攻撃性の背景にあったのは怒りや恨み、復讐の念でありながら、それらの感情の存在自体は否認される一方では、歩行者への攻撃は執拗でかつあたかも機械的に、無感動に行われているというニュアンスがある。
 私はここに見られるKTの性質は犯罪性格のそれとみなしていいと思うが、もしそうであるとするならば、彼の示す防止策も、反省内容もことごとく見当外れということになる。彼が中学時代にこの種の行動をとっていたということは、その時に対策を取っていればよかった、というたぐいのものではなくむしろ、彼は思春期の時点で犯罪者性格の条件をおそらく備えていたであろうことを意味しているのだ。そしておそらく幼少時からその兆候はあったであろうことをも示唆しているのである。

2013年2月25日月曜日

パーソナリティ障害を問い直す(14)

「解」を読み進める(12
 31番目の章(実際には第7)「報道との矛盾について」は、KTが「事件」後に自分に関する報道に接して感じたことについて書いている。彼は取り調べを受けている間は外部との接触は一切なかったために、起訴後に様々な報道を知ることになったが、「結論から書くと、事件報道はほとんど嘘です」という。そのあとに幾つかの「嘘」の報道の例が挙げられているが、それほど説得力は感じられない。YOMIURI ONLINE が報じた「たとえば『人を殺すために秋葉原に来た。誰でもよかった』などと供述している。」という部分についてKTは「それはそのような供述調書が作成された」と主張し、実際には彼自身が正確にそう述べたわけではないとする。うーん、この辺は些末な議論という気がする。だいたい彼はこんなことに文句が言える立場だろうか?100%相手のせいにするという傾向は健在という気がする。
 「解」も残すところ数十ページであるが、この最後の数章で述べられていることは、掲示板上でのやり取りの詳細と、KTが「再発防止」として提示するいくつかのアイデアである。新しい情報は少なくなり、彼の心の中で生じたことについての情報はだいたい出そろったという印象を持つ。その中で彼が述べる防止策に特に注目したい。
 まずKTが「事件」の原因として3つあると自己分析している部分があるが、彼の思考を確かめる上で参考になる。それらは彼が掲示板に依存していたこと、掲示板でのトラブル、そしてトラブル時のものの考え方(間違った考え方を改めさせるために…という例の思考)である。そしてこれら3つが重なることで「事件」は起き、防止策はそれを防ぐこと、という風に説明される。ここで一つ気が付くのは、これらの問題はあたかも彼の行動や思考上の誤りとして説明されているが、そこに感情の要素が言及されていないことだ。
 「対策とは」36番目の章の冒頭で、KTはこう述べる。あくまでも再発を防止しなくてはならないのは、「むしゃくしゃして誰でもいいから人を殺したくなった人が起こす無差別殺傷事件」ではなく、「一線を越えた手段で相手に痛みを与え、その痛みで相手の間違った考え方を改めさせようとする事件」であるという。つまり彼の起こした「事件」は後者であり、そこに怒りやそれに任せた殺傷という要素を否定するのだ。そして「ふつうは事件なんか起こさない、という言われ方」に反対し、「普通か否かは思いとどまる理由の有無でしかない」という。KTのこの主張は、「事件」に至った経緯にはある種の必然性の連鎖があり、それがたまたま途中で中断されることがなかったために「ドミノ倒しのよう」に最後の「事件」に行きついたというものである。そしてそのような事態は、彼が挙げた三つの誤りを犯し、そのプロセスを止められない場合には、ほかの誰にも生じうるというニュアンスがある。
 そのプロセスを止めるために必要な策としてKTが挙げているのが「社会との接点を確保しておくこと」であるという。そしてさらに具体的には、ボランティア活動を行ったり、サークルや教室に通ったり、何かの宗教に入信することであるという。さらには「自分の店を持てば『客のために』と、社会との接点を作ることが出来ます」という。

2013年2月24日日曜日

パーソナリティ障害を問い直す(13) 

「解」を読み進める(11
  26番目の章「懲役より死刑を選ぶ」から30番目の「『してはいけない』意識と無意識」の章までは、「事件」に至ったKTの心の動きについての説明が続く。いわば「解」の核心部分と言っていい。ここで彼が繰り返し語っているのは、秋葉原の通行人は他人であり、「『どうでもいい』とすら思わない、何かを考える対象から外れてしまっていました」という事実である。これがなぜ彼が人を殺めるという行為に至ったかの自分自身の説明である。これは(7)にも書いた、彼の内的対象像の特徴とも関係する。彼が個人的なつながりを持たない「人」は、内的対象として極めて希薄な存在感しか持たない。それはKTにとっては「人」としてすら感じられない可能性がある。
「解」から引用しよう。
「たとえば普通の人はニュースで事故などを知ると犠牲者のことを考えて心を痛めるようなのですが、私は特になんとも思いません。他人だからです。一方、友人が車で事故を起こした、と聞くと、友人が無傷あっても心配になりますし、仕事でけがをした、と聞くと、週に23回も見舞いに行きます。」
  つまり彼と直接かかわりを持たない人は、単なるもの、あるいはそれ以下のものとしてしか感じられていない可能性がある。それをKTは「守備範囲の狭さ」という言葉で表現している。つまり相手の身になることのできる人の範囲が非常に限られているという意味である。
  ところで人を人と感じない、という現象は通常の人間にもある程度は起きることは確認しておきたい。たとえば振り込め詐欺を繰り返す集団の構成員はすべてが反社会性格というわけではないだろう。中には生活のためと割り切って仕方なくその稼業に手を染めている人もいるだろうし、その人は老人から何百万も巻き上げながらも、一生懸命相手を人と見ないようにしているはずだ。そうしないと罪悪感で「仕事」を続けられないだろうからだ。さらに私たちの多くは地球の裏側で多くの人々が餓死し、あるいは戦乱で命を落としていることにほとんど頓着せずに生きている。これだって人を人と感じないということを間接的に行っていることになろう。
 ここで対象を人から動物一般に広げたとしたら、むしろそれを生きている存在として認識しないことの方が普通な場合が多い。そうでないと日常生活はおよそ不可能になってしまうだろう。ビーフカレーの中に入っている牛肉の塊を牛の死体の一部として認識し、その牛が殺される光景を生々しく思い浮かべることは、通常の人にはあり得ないのだ。
  そこで考えてみる。KTの問題をこの、人と人と感じないという性質の延長線上としてとらえることが出来るのだろうか? それはできない、というのが私の結論である。私たちが人を人と、生き物を生き物と思わないのは、その人や動物が苦しむ場面を実感できない限りにおいてなのだ。ビーフカレーを何の葛藤もなく頬張る人も、牛が屠殺場で殺されるシーンを見せられた後は食欲をなくすはずだ。人を人と思わない心の機制は通常はこの種の否認と考えられ、それは実際の相手の苦しみを実感するような状況では有効性を失う。
 ところがKTは異なる。刃物を実際の人間に何度も振り下ろしたのだ。それが実行できてしまい、しかも「解」の中にいまだに自分の行為に対する恐怖や信じがたさや嫌悪の記述がみられないということがKTの一番の病理なのである。

2013年2月23日土曜日

パーソナリティ障害を問い直す(12) 


「解」を読み進める(10

昨日のブログは昼休みに書いたものだが、実は肝心の「解」を家に忘れたためにうろ覚えの内容だった。(一部は後で確かめて付け足した。)しかしその方がかえって細部にこだわらずに書けたことと、 少し“解”(「解」との区別で、こう表記することにした)に近づけた気がした。「KTは虐待の犠牲者だったのか?」という、本来は浮かんではいけないはずの考えまで浮かぶ。もちろん「KTの引き起こした事件は結局彼が受けた虐待が原因です」とは決してならないが、“解”の文脈の一本の糸とはなりうる気がする。とにかく一歩進んだ感じ。
20章めの「ツナギ事件」は、職場で朝彼のツナギがロッカーで見つからなかったことに反応したKTが衝動的に仕事を辞めたエピソードで、「事件」の3日前の6月5日のことである。一般には「事件」の引き金になった出来事と考えられるようだし、私もそう理解していたが、「解」によれば必ずしもそうではない。すでにほぼ決行が決まっていた「事件」を止めていたものがいよいよなくなったということだ。KT細かな心の動きが描写されていて、一つ一つ紹介すればきりがないが、それなりにフォローできる部分が多い。
 興味深いのは、職場を辞めることで、彼の心の世界には、彼となりすましの二人しか残っていなかったという記述である。なりすましもネガティブな意味では彼にかかわっている。だから孤立ではなく、自殺もする必要がなかった。そのかわり彼の世界には自分となりすまししかいず、それとのかかわりに入ってしまい、袋小路に陥ったという観がある。
 いずれにせよKTの世界には彼と正体不明の成りすまししか存在しえず、それ以外にはこれから彼が殺傷しようとする何人かの罪もない人々も含めて、生身の人間としては存在しなかった。だからどのような残酷なことも、彼にはできたということが言えよう。それが彼のロジックであり、体験であった。月並みな比喩だが、彼にとって自分がこれから起こす殺戮は、ゲーム感覚だったのであろう。ゲームで人を撃つことは罪悪感を起こさないが、それは、本当(リアル)の人ではないからだ。だから「事件」に至る此処までの経緯を読んでも、殺される人の心を思いはかる言葉は全然出てこないのである。あたかも彼の世界では自分と成りすまししか存在せず、あとはぼんやりとした背景に退いているかのようだ。それでいて彼の文章には、これから起こす「事件」が、彼が知っている人に迷惑をかけるのではないか、というたぐいの記述は残している。彼が直接かかわった人間は多少なりとも現実の部類に属し、共感や配慮や遠慮の念は及んだのだろう。しかしそれ以外の不特定多数の人に対する同様の感情は一切起きていないかのようなのだ。
23番目、および24番目の章「突入」「刺突」はKT68日の1233分、歩行者天国中の実際に秋葉原にトラックを乗り入れて人をはね、刃物で何人かを死傷させた時のシーンを記載している。トラックを運転していた彼はなかなか決行するチャンスをつかめず、同じ交差点を何度も通過する。そして「4回目に交差点に向かうときには、心を殺していました。」とある。そして歩行者の列に突っ込んでいったのだ。
これから先の描写は控えるが、一番気になる点。刃物で何人もの人を殺めるということがどうしてできたのか?人間の心がなかったのか?
 もともとKTは暴力行為に走ったという前科があるわけではない。もちろん衝動的な会社の辞め方などは繰り返してきたわけであるが、彼が特別反社会的だったり、暴行傷害を繰り返してきたり、というわけではない。それがどうしてそのような暴力行為の極限ともいえる行為に走ることができたのか?
まだ本書を三分の一以上検討し残している以上(もちろん通し読みは済ませてあるが)最終的な結論はまだ出ないのだが、結局は「わからない」としか言えない。彼の行為の描写からは、歩行者をひき、通行人を刺殺した際に体験するはずの激しい情動は描かれていない。「心を殺して」いたからかもしれないし、上にも書いたようにゲーム感覚だったのかもしれない。それは冷酷な行為だったともいえるし、心を殺して冷酷になることでしかなしえない行為だったということもできる。少なくとも快楽殺人にみられるような、殺す際の性的な快感を味わったという記載は見られないのである。

2013年2月22日金曜日

パーソナリティ障害を問い直す(11) 

「解」を読み進める(9
 うーん、全然連載が終わらない。一向に「解」が見えてこないのである。まあ、そのためにこのブログを使って考えているわけだが。そろそろ内容が、繰り返しになり、飛ばし読みができるようになることを期待しているのであるが。しかしこの作業も、この「事件」でなくなった方々の供養の意味もあるのではないかとも思う。あの忌まわしい出来事を引き起こしたKTの心の流れを少しでも整理しようとしているわけだから。
 第14番目の章「人のせい」以降KTのモノローグがしばらく続く章があるが、その内容は精神医学的に興味深い。この数章で彼は、「事件」に至るまでの自分の考え方がいかに間違っていたかを反省している。要するに自分がいかに「事件」を引き起こすにいたったかについての弁明を試みているわけだが、これを読んでいて少し考えが進んだ。
 この数章に述べられる彼の主張は、自分が以下の3つの誤りをおかしていたと言うことである。

1.        KTが、「自分が悪いか、相手が悪いか」の二者択一式の考えしかできなかったこと。そして彼が結局はつねに「人のせい(相手が100%悪い)」にしてしまっていたこと。
2.        「相手の誤った考え方を改めさせるために、痛い目を見てもらう」ことに固執したこと。
 
3.        相手に対する不満を伝えることで、話し合いの場をもうけることなく、常に直接行動に出てしまっていたこと。

 もしKTがこれらの3点の誤りに気づき、本当に反省しているのなら、そしてそれが今後の彼の行動の変化につながるとしたら(とはいえ今後の彼の人生はもう「ない」はずなのだが)、それは画期的なことではあろうと思う。しかしそれではもし彼がこれらの誤った考えを持たなかったら「事件」を防げたかと言えば、それは別の話だ。しかしともかくも彼の言い分を少し検証してみる。
 まずKTは1.については、自分が常に母親から情報操作をされ、それ以外の考え方に触れることがなく育ったことを理由に挙げる。もしKTの記述が正確だとしたら、確かに彼の母親の態度は問題が多く、あからさまに彼に対して虐待的であったといえるかもしれない。母親は彼の行動に問題を見出した場合、「こちらに4分、向こうに6分非がある」というような考え方をせず、100%相手が悪いという考え方を取る人であったという。そしてそれに基づきKTを処罰したというのだ。そしてこれは2.にも関連することであるが、母親は息子の「誤った考え方を改めさせるために痛い目にあわせる」扱いを常にをKTに対して行なっていたという。それは例えば母親の料理の邪魔をしたときは二階から落そうとしたり、九九の暗唱を間違えた時には、風呂に沈めたりしたという。そしてその仕打ちをされたKTは考えたという。「自分が間違っていたからこのようなことをされるのだ。それを改めるしかない」。これを繰り返してきた以上、KTはそれを他人に施すことにも抵抗がなかったという。
 この部分を読んで私もある程度は納得した気がした。考えを改めるためにある種の懲罰や強制力を加えるという手段は、彼の場合にそうであったように、ある場合には有効なのだ。しかしその場合はそこで感じるべき恐怖や怒りや憎しみが解離される必要があるということなのだろう。そしてこれは上述の3の問題にもつながっていく。他人との関係で自然と持つ感情、すなわち理不尽さや不満や怒りを、私たちはある程度は相手に表明することで、その関係性が過剰なストレスとはならないようにする。対人関係とはそのような意味で力動的なものだ。自分の考えを他者に押し付けると、何らかの反応があり、それにより自分の態度や考えを変更せざるを得ない。そこに介在する重要な要素が感情である。相手の不満や怒り、時には感謝の念が自分の態度を変えるのである。
 KTの記述に何度も出てきて、そのたびに違和感を覚えていた表現、つまり「相手の誤った考え方を改めさせる為に痛い目にあわせる」の意味がここに少し明らかになる。少なくともKTはそうやって生きてきた。痛い目にあうことで、それに反発することなく、交渉することなく、自分の行動を変えてきた。そこに解離され、切り離されていたのはネガティブな感情であり、それが突出した形である日衝動的に表現されるのである。
 ここでKTの問題を少しはなれ、一般的な子育ての状況を考えてみたい。実はこの種の問題は実は常に起きている可能性がある。親は子供を叱る。子供はそれにたいていの場合服従せざるを得ない。問題は子供がそこで怒りや反抗心をもっていないかのように振舞い、また実際にそれを感じていない可能性がある。しかしそれは将来親に対する深刻な怒りや憎しみを生む結果となることが多い。そこで問題となるのが、先ほども少し触れた解離の機制なのである。そこで切り離された感情は、そのときは体験されずに、しかし別の機会に、心の別の場所で体験される。そしてそれは容易にはその人自身に統合されないのだ。

2013年2月21日木曜日

パーソナリティ障害を問い直す(10) 

「解」を読み進める(8)


第9番目の「事件に至るまで」という章以降では、KTのインターネットの掲示板とかかわりに関する記述が増してくる。そしていよいよ「事件」の核心部分に迫って行く。彼が「事件」を起こしたのが、2008年6月8日だが、その一週間前に、彼は事件について「思い浮かび」、秋葉原にナイフを買いに訪れている。しかし刃物屋だと思って入った店が雑貨屋で、そこで面白いアイテムを見つけたKTは、それを職場の友人に買っていこうという考えに夢中になり、「ナイフのことはすっかり忘れて帰宅し」てしまう。ここでは自殺、ないしは殺傷事件という深刻な内容の思考が、ごく些細なきっかけで突然消え、またよみがえるという奇妙な、そしておそらく病的なKTの心の動きが示されている。

 この章以降では、「事件」の直接の引き金になったインターネット上での出来事についても注目したい。とはいえ、私には彼の書いていることが十分に把握できない。スレッドに投稿し、そこに反応してくる投稿者たちとのやり取りに一喜一憂するという体験を持ったことがないからである。しかしもはや現実での人間関係を失ったKTは、この世界に没頭する。そこで彼自身が立ち上げたスレッドで、ある人物に「成りすまし」や「荒らし」といった被害を受ける。そしてその人物とのやり取りがまっすぐ「事件」につながって行く形となる。あるいは少なくともKTはそう説明しているのだ。第10番目の章「思い浮かんだ事件」では、KTはこう断言する。「成りすましらとのトラブルだけが事件の動機だったのは事実です」。

 この「思い浮かんだ事件」という章では、「事件」の原因をKTなりに説明している。彼はこういう。「(私は)成りすましらとのトラブルから秋葉原で人を無差別に殺傷したのではありません。」「秋葉原無差別殺傷事件は、成りすましらを心理的に攻撃する手段です。」この違いはちょっと聞いただけではわかりにくいが、KTはここは重要であるとする。彼はさらにもう一つの区別も強調する。
 「なりすましらはどこの誰なのかわからない人だから、どこの誰なのかわからない無関係な第三者を同一の怒りの対象として殺傷したわけではありません。そうではなく、なりすましらはどこの誰だかわからない為に、殴るといった直接の物理的攻撃も、にらむといった直接の心理攻撃も不可能で、何かを通して、間接的に攻撃をするしかなかった、ということです。」つまりKTがなりすましにできる唯一の攻撃は、スレッド主である彼が大事件を予告し、それを実行することで、自分たちのせいでそんなことが起きた、という罪悪感や恐怖を体験させることであったというのだ。

数日前のグアム島での類似の事件を起こしたデソト容疑者。事件の動機についてほとんど意味のある供述をしていないという。それに比べてKTはこの「解」で何らかの鍵を提供しようとしていることになる。もう少し注意深く彼のロジックを追ってみたい。

2013年2月20日水曜日

パーソナリティ障害を問い直す(9)

「解」を読み進める(7
「解」についての冗長な考察を続けているが、いちおうこれでも考えながら書いているのである。スピードが出ないのは、私がこの本に出てくる彼の思考や感情の記述を十分に追えずにいるからだ。KTの頭で生じていることは、それだけわかりにくい。
 読み進めるうちに、KTの人生の破綻の序章という雰囲気が漂ってくる。不思議なことだが、私の頭の中で、KTの人生は終わっているかのように感じる。KTはその引き起こした「事件」の甚大さからも、到底生きていてはいけない存在だからだということもあるし、おそらく彼の今後の人生の中で死刑執行以外に意味ある出来事は生じてはいけないとも思う。しかし彼は刑務所の中でおそらく安らいでいるだろうとも考える。彼は独房にいてさえも孤独ではないはずだし、もしそうだとすると、やはりそれは問題なのだ。彼が奪った多くの命を償うことは、彼の死をもってしかないだろう。
 彼の手記の「自殺(2)」に進む。順調だったはずの彼の生活は2007年の7月に突然終わってしまう。両親が離婚をしたことをきっかけに、青森の実家を出されてしまったからだ。そして彼の孤独を埋めるための放浪が再び始まり、運送会社での仕事を辞めてしまったこともその追い討ちとなった。
 彼の退職のパターンは大体決まっている。自分が理不尽に扱われていると感じ、被害的になり、会社の「間違った考え方を改めさせるために」何らかの嫌がらせや損害を与えて「痛い目を見てもらおう」と考えるが結局実行に移さず、自暴自棄になり、あるいは職場への当てつけの意味を込めて仕事場から突然去ってしまう。そしてアパートに帰った時の強烈な孤独感が、彼を死に一歩近づける。しかし今度は彼を自殺から救ったのは、兵庫の友人であったという。その友人が半年後に遊びに来るという連絡を入れただけで、KTの自殺の考えはうせてしまったという。しかしこの章に続く「自殺(3)」では、その友人が来るのが実は一年半後ということがわかってまた絶望し、本気で自殺を考えるようになる。この辺が実にめまぐるしい。
 この時の彼の自殺企図の様子は精神医学的に見て非常に興味深い。彼は駐車場で車の中に籠城し、そのまま死のうと思ったが、不審に思った駐車場の管理人に警察を呼ばれてしまう。KTはその警察官に「何をしている」、と聞かれただけで、「久しぶりの人との会話に涙があふれた」という。しかし警官に自殺しようとしていたと告げたところ、「生きていればいいこともある」と言われて「心が凍りつきました」とある。それは「(俺は何もしてやらないけれど)生きていればいいこともある(だろうから、一人で勝手に頑張れ)ということだからです。」ということだ。
 その後また状況は反転する。その駐車場の管理人にそれまで溜まっていた駐車料金を請求されて、今は支払えないと答えたところ、「年末までに払えばいい」と言われる。すると「自殺のことなど、一瞬で消えてなくなりました」というのだ。彼はそれをこう説明する。この言葉はその駐車場の管理人が彼を信用して待っているということを意味する。そうである限り、彼は生きながらえることが出来る。実際KTはそれから静岡で仕事を見つけ、後に仕事をしてできたお金を持って上京し、管理人に返済をしたところ、感謝されたという顛末が語られる。
 他人からのひとことで、ある時は一瞬にして心が凍りつき、別の場合は自殺の考えがすっかり消え去ってしまう。これはいったいどういうことだろうか? もう何度も見てきたKTの心の動きだが、彼の思考の奇妙さがそのたびに浮き彫りになる。彼の心の中の他者イメージにより簡単に寂しさが癒される。章の最後でいみじくも彼は言っている。「約束があれば、孤独でも孤立しません。私が誰かのことを考えた時、その誰かと約束がされていれば、その人の頭の中にも私がいる、と思えるからです。」

KTにおける内的対象の性質
 KTの思考プロセスがどうして奇妙に思えるのかについて改めて考える。精神分析に内的対象という概念がある。わかりやすく言えば、心の中に思い浮かべるある「人」のイメージのことだ。通常はその「人」が自分をどのように思っているのか、つまり愛情を持って見つめているのか、それとも憎しみを抱いているのか、あるいは全く関心を持っていないのか、などが非常に重要となる。その「人」に愛情を向けられていると信じられることで満足するかもしれないし、憎まれていると感じられることに耐えられない、ということもあるだろう。しかしともかくも実際にその「人」が目の前にいなくても、その「人」を心に思い浮かべるだけで、一緒にいる気分になる。そう感じられるだけの能力を、正常な発達を遂げた私たちは備えているのだ。数日前のブログで、「人は本来孤独を恐れるものだ」と述べたが、内的対象を持てるということは、その孤独を癒す最も有効な手段といえる。もちろんそれだけでは満足できず、実在して隣にいてくれる「人」の存在も私たちは必要としているわけだが。しかししばらくの間孤独に耐えなくてはならない時も、ある「人」を思い浮かべることでそれを和らげることが出来る。たとえその「人」は遠く離れてほとんど会うことはなくても、実際にはもう亡くなっていても、「あの人は生前私のことをいつも温かく見守っていた」と感じられることで、内的対象イメージは私たちの心を内側から温めてくれる。
 ところで内的対象と実在する「人」とはどう違うのか?「人」には、その物理的な存在だけでも安心したり、心強く思ったりするというところがある。その人が特に自分のことを愛していなくても、特に関心を持ってくれていなくても、同じ建物にもう一人いるということで安心するということもある。夜中に一軒家にひとりで過ごすときの不安を考えるといい。ルームメイトがいるだけで、たとえその人と言葉を交わさなくても心強く感じるものだ。それを実際の「人」の物理的な存在という側面と考えよう。そこにいるだけでいい、という意味で、である。
 さてKTにとっての内的対象とは、この物理的な側面を持っている、ということを私は言いたいのだ。通常の内的対象は、自分に向けている気持ちが大きな意味を持つ。「ただいる」だけでは足りないのだ。ところがKTにとっての内的対象は、ただ物理的にそこにいる、というだけで安堵感を与えると言うところがある。そこが奇妙なのだ。逆に言えば、内的対象の持つ意味があまりないということになる。心の中の「人」が自分を過去に思ってくれていたのであれば、それで心の中では孤立しない、という事は彼の場合には起きない。内的対象像は、自分の事を心に留めることをやめた瞬間に・・・・・消えてしまうのだ。これは本当の意味で内在化された対象イメージではない、ということになる。内的対象を持つという機能の何らかの異常、欠損、ということをとりあえず考えつつ、まだまだ未完成な考察のまま、さらに読み進める。

2013年2月19日火曜日

パーソナリティ障害を問い直す(8) 

「解」を読み進める(6)

 次の章「青森の実家での生活」では、KTの人生にひと時の安定が訪れる。自殺を寸前で思いとどまった結果として車を大破した彼は、援助を求めて青森の実家に帰らざるを得なくなった。そしてそこでふたたび家族との交流が再開する。彼は運送会社に職を求め、仕事を終えて夜は帰宅するという生活を始める。
 「仕事中、一人でトラックを運転していても、孤独ではあっても孤立はしていません。会社の車を運転していることや、荷物を待っている人がいることが、社会との接点になっていたからです。仕事を終えても実家という帰るところがあります。帰ること、家にいることそのものが、母親のために、と社会との接点になっています。孤立とはまったく縁のない生活になりました。」。
 ここでの孤独と孤立の違いの説明はそれなりに説得力がある。また自分の行動が誰かとの接点を感じさせるものでありさえすれば、それでよかったという彼の記述も興味深い。このような形での孤独感や空虚さの埋め合わせ方は、やはりBPDとは異質という印象を受ける。BPDの場合、特定の誰かに去られるという出来事を通じて、その孤独感が痛烈に感じられるのに対して、KTの場合は要するに寂しさを紛らわしてくれる人なら誰でもいいし、それが絶たれるととたんに苦しくなるという、まるで薬物依存のような傾向がある。(何日か前の記載で、彼がちょうど空中の酸素のように社会との接点を必要とする、という書き方をしたが、同じような意味である。) KTの社会との接点への飢餓は、たとえばゲームや読書など、一定の間自分の興味を満たしてくれるものでは満たされない。あくまでも実際の「人」なのである。単なる「寂しがりや」の極端なケースなのか、この人間は? もちろん精神医学的な検証をしようとしているときに、それを「病的寂しがり」で済ませるわけには行かない。彼が「事件」を起こすに至るには、他のいくつかのピースが考えられるだろう。しかしこの私が仮に名づけた「病的さびしがり」傾向も、一つの重要なピースであることは確かだ。
 ともかくも実家暮らしをしているKTの生活ぶりを見る限り、KTは至極普通の人間のように見えてもおかしくない。他人に迷惑をかける、という感覚も備わっているようだ。「偶然のことですが、車屋にレッカーしてもらって車屋にいることで、車屋が社会との接点になりました。修理もできない車を置いたままピットを占領していては迷惑だと思い、その迷惑をかけている状態を解消するという行動の理由ができたからです。」とある。さらには掲示板で自虐ネタを披露する、ということも学習する。この頃、すなわち2007年の春ごろに彼と接した人は、彼がわずか一年後には、秋葉原であの「事件」を起こすことになると想像だにしなかったはずである。市井の人として淡々と仕事をこなし、しかも他人をそれなりに気遣うことができるKTがどうして殺人を犯すことになったのか?私たちの問題意識は常にそこに帰っていくわけだが、結局それが示しているのは、次のことのようだ。殺人は、「人の痛みがわからない」ことの究極にある、というわけではないこと。通常の状態とは異なる、ある種の精神状態に置かれ、そこでは特定の視点が盲点化され、特定の感覚が麻痺し、特定の目的のために行動がとられる。ただし誰でもこの特異な精神状態に置かれるわけではない。それを準備するようないくつかの条件、私が言う「ピース」があるのだろう。
 私は仕事柄解離の病理に接することが多いが、KTに見られるのも不連続性である。(そんな結論にこの先至りそうである。)

2013年2月18日月曜日

パーソナリティ障害を問い直す(7) 


「解」を読み進める(5 
 ここ数日、「解」を少しずつ読み進めて、その感想をブログに書いている。
4番目の章「自殺(1)」は興味深い章だ。彼は言う。「孤立すれば、自殺はもう目の前です。私は肉体的な死には特に感じるものはありませんが、社会的な死は恐怖でした。ですから孤立の恐怖から逃れるために自然と自殺が思い浮かんでくるのだと思います。」そしてそこから20058月末の、自殺一歩手前に至るまでの経過が書かれる。
 KTは当時孤独を紛らわすために、接客業の女性を買い、出会い系の女性と時間をともにし、ヒッチハイクで話し相手を見つけた。いずれも孤立を一時的に癒してくれるが、どれも本質的ではない。根本的な解決策がない限り、自然と死に向かっていったという。しかし自殺をする、という行為もまたその瞬間までの孤立を回避するための手段として使われることになる。そのために昔の友人にメールでそれを宣言するのだ。すると自殺は彼らに対する「私と一緒にいてくれない、という彼らの間違った考え方を改めさせるため」に「彼らに心理的に痛みを与えるため」のものとなるという。KTはそれを「自殺をしようとすることで社会との接点を作ることができる」と表現する。
このあたりの記述は、KTにとって自殺や他殺という社会にとって甚大な影響を及ぼすような行為が心の中でどのように位置づけられていたかを知る上で貴重である。通常人間は人の命を奪う行為については、それが自分のものであれ、他人のものであれ、最大の抑制がかかるようにできている。それは強烈な恐怖や罪悪感とともに自らの行動目的からは極限までに遠ざけられるのが通常である。私がこの問題を重視するのは、それでも世の中には、「自分の肉体的な死に特に感じるものはない」人たちがいて、おそらくその一部の人たちは、「他人の肉体的な死」についても「特に感じるものはない」ことを意味し、それが他人の「間違った考え方を改めさせる」ために容易に使われてしまう可能性があるということである。KTのように。おそらく孤独を何よりも恐れるという人たちはこの世には少なくないのだろう。というより人間存在は本来孤独や孤立を恐れるのであり、あとは個人個人がそのためにどのような巧妙な防衛手段を備えているかということになろう。しかし自分の肉体的な死に関しては、それを何も感じないという人はきわめて例外的なはずである。孤独も怖いが、死ぬのも怖い、というのが普通なのだ。ということは自分の、そしておそらくは他人の肉体的な死に頓着しないというKTの精神の畸形が、「事件」を考える上でもっとも本質的な問題としてあると考えるべきなのだろうか? もしそうだとするとこのまだ全体の10分の一も読み進めていない「解」の解は、すでに与えられているのかもしれないとも思う。でも果たしてそれでいいのか?死を恐れるというおそらく本能に根ざした部分が、彼の場合スイッチオフされていて、それが「事件」につながった、その理解でいいのだろうか?
 ともかくも「自殺(1)」の章は、予定通り対向車と正面衝突をする寸前だったKTが、登録していた出会い系からのメールをたまたま受信することで、「孤立の解消が期待できた」ためにハンドルを切り、自殺を中止するところで終わる。これもスイッチオフされたように。

2013年2月17日日曜日

パーソナリティ障害を問い直す(6)


 「解」を読み進める(4

「解」の二番目の章である「埼玉での生活」には、KTの示す「社交的」な面も書かれていて興味深い。これまでも書いたように、KTは自分を見つめてくれている人の存在を、あたかも空気中の酸素のように必要としているというところがある。つまり彼は他人といると快適ないしは安心なのであり、必然的に社交的ということになる。ただその社交性は独りよがりのものであり、自分を利するものでしかないと思われるだろう。自分から他人のもとに寄っていっても、相手にされなかったのではないか。しかし案外そうでない面も示される。たとえば彼はこう書く。
「東京でのイベントで入手できるゲームを頼まれたときには始発で出かけて何時間も並び、少しでも速く青森に送ってあげようとしたり、秋葉原で入手できるCDを頼まれたときには、そのほかにもサービスで関連グッズを詰め込んで青森に送ったりもしました。」
あるいは中古車屋で高い車を買わされそうになった時のことについても、「断ればいいじゃないか、といわれそうですが、断れないのは、その店員が社会との接点になるからです。予算オーバーでも、当時の私としては、その店員の為に『買ってあげた』感覚でした。」
このような行動に見られる彼の対人交流の態度は、お人よしでサービス精神が旺盛のように見える。一緒に過ごす相手にとっても、KTは「いいやつ」として映っていた可能性がある。そもそも彼は高校時代を通して常に友人とつるんでいた(そうしていなかったことがなかった)というわけだが、彼が他人といても常に相手にされていなかったとしたら、そのような「交友関係」(と呼んでおく)は不可能であっただろう。KTが相手の心を自分の心の中で想像し、利他的な行動をとることが出来ないような深刻な発達障害を抱えていた、という想定は必ずしも当てはまらないことになる。この「そこそこに利他的」であり「案外いいやつ」であったKTが最終的に「事件」を起こしてしまったこと、この不思議さ、わかりにくさはより問題の本質に近いのだろう。数日前のグアムでの事件のデソト容疑者も、陽気で明るい性格として通っていたという報道もある。
 この章ではまた、例のロジックも顔を出す。意地悪を受けた「その正社員の間違った考え方を改めさせる為、まずは所属していた派遣会社の上司経由でクレームを付けるという方法で怒りを伝えました。」という文章は、すでに紹介したものに非常に似ている。しかしここでは「それが無視された為、無視できないような痛みを与えようと、無断でやめることが思い浮かんだものです。」と、それが怒りの表現であることを認めている。ところがすぐ後の部分では、「とはいっても、その正社員を痛い目に併せたかったわけではありません。間違った考えを改めて欲しかっただけです。痛みを与えるのはその手段です。」と書いている。
次の章「茨城の生活」でも、この同じ文章が登場する。今度は対象は派遣会社である。「会社は私に、業務上必要なフォークリフトの免許を取らせてやる、と約束しておきながら、そのまま放置していました。」という。そこで「派遣会社の間違った考え方を改めさせるため、無断で工場をやめ、派遣会社が工場から怒られることで痛みを与えようとしました。」とある。
この「茨城の生活」という章ではまた、KTBPD的な側面をにおわす記述が見られる。勤めていた工場の上司が車好きだと知り、サーキットに連れて行ってもらうが、そこで浮いた存在になってしまう。そして「・・・場にそぐわない高性能車に乗っていたこともあって浮いてしまい、楽しめませんでした。・・・ 「自分」がない私ですが、車が好きだと言うことは、私の中で細いながらも芯が通っていたものだったと思います。そんな車が楽しくないものになってしまったことで、自分を支えていたものがポッキリと折れてしまったようなきたしました。」
自分の中に安定したものがなく、空虚さを埋めてくれるものや人に依存し、時にはそれらの人や物に死に物狂いでしがみつくという傾向を、彼自身もある程度は認識していたかのようであるが、この部分はまさにBPDの病理と重なるものと考えていいだろう。

2013年2月16日土曜日

パーソナリティ障害を問い直す(5) 

「解」を読み進める(3)

本書の冒頭の「掲示板を始める」という章にすでに、そのもう一つのファクターは現れる。それは被害念慮に基づく激しい攻撃性である。KTはかつて勤めていた宮城の会社を辞めた経緯についてこう書いている。「人件費がかかりすぎる、という理由で時給から固定給にされて残業代が支払われなくなったこと、指示されて進めていた作業をひっくり返されたことなど、ある上司とのトラブルが原因だったといえます。ただし、ただ嫌になって辞めたという単純な話ではありません。」そして次に問題の箇所が出てくる。
「まず私は、その上司のさらに上司に退職願を提出することで意思表示をしてみましたが、それが通じなかったため、事務所に放火したうえで、消火栓からホースを引いてきて放水し、少し痛い目にあってもらうことで間違った考え方を改めさせることが思い浮かびました」と書かれ、次に「しかしそれは思いとどまっています。同じ事務所には、よくしてくれる先輩や眼をかけてくれる上司もいたからです。そうした人たちには迷惑をかけたくありませんでした。」とある。
 放火うんぬんという部分はその重大さを見逃される可能性がある。このくらいのファンタジーはよくあるし、頭に浮かんでも実行に移さなかったのだから大したことはない、と思われるかもしれない。しかしKTはこのファンタジーを実行するだけの危険性を持っていたことをすでに私たちは不幸にして知っている。その目でこの文章を読むと、この人物がいかに危険な存在かを改めて知るのである。
この短い引用に私が問題と思うのは以下の点である。

1. 「指示をひっくり返された」こと、「上司トラブルになった」ことについての詳細はわからないものの、その報復としての放火という手段が尋常ではないこと。
2. 「少し痛い目にあってもらう」が「間違った考え方を改めさせること」にとって効果的であると信じていること。
3. 「ただ嫌になって辞めたという単純な話ではない」という主張の根拠が希薄なこと。
4. 「よくしてくれた人に迷惑をかけたくない」という根拠のみでファンタジーを実行しなかった様に思えること。
 1. については、こう言っては問題かもしれないが、職場ではよくあることではないか? 雇用者と被雇用者、上司と部下の関係が本当の意味で平等と言えるはずもなく、大体前者から後者への扱いは高圧的で理不尽で、場合によっては虐待的ですらある。それが倫理的に許容されるべきかどうかとは別に、それにある程度は耐えることでしか仕事を維持できないということが多いのが現実である。その様な扱いを受けたことの報復としての放火は人命にかかわることであり、因果応報というには程度が余りに違う。
2. については、同じロジックがこの「解」の中では何度か用いられ、最後にはあの「事件」にまで至る。それさえもネット上での彼の「なりすまし」を行っている人物に対して、「間違った考え方を改めさせること」として為されたという経緯(実はそうなることが先を読んで行くとわかる)から、結果的にこのロジックの異常さも逆照射される。大体人間は他人から「痛い目にあわされる」ことで自分の考えを変えるだろうか? それほど単純なものとして人間を見ているのか。大体他人から「痛い目」にあわされることで反省したり改心したりすることなど通常は起きないことは、自分自身の体験からわかることではないか。ただしそれでも私たちが自分が誤解されたり不当に扱われた際に激しく相手を糾弾するということが頻繁に起きるのは、それが自らの怒りの表現手段となるからであろう。逆ギレはそれなりにカタルシスになるのである。それは相手の考えを改めさせるためではなく、相手を屈服させるために、あるいは相手に痛みを与えるために行うものだ。
3. については、「ただ嫌になったという感情的な理由から仕事をやめたのではない、もう少しそうするだけの理屈ないしは正当性があったのだ」と言いたいのであろう。しかしはた目からはもっぱら感情的な理由が仕事をやめた最大のきっかけであるように見える。
4. については、放火(たとえ直後に消火をしたとしても)という行為の非倫理性、反社会性がまず自らに問われていないのが奇妙である。たまたまその職場で「よくしてくれた」人がいなかったとしたら、放火という行為にストップをかけるものはないかのようである。そして実際の「事件」でも、相手が自分にとって見知らぬ人々であったから(つまり「よくしてくれた」人がそこに含まれなかったから)こそ犯行に及ぶことができた、というニュアンスがあることからも、この論理の異常性が結果的にわかるのである。
このように本書の冒頭の部分ですでに問題とされるべき点は、ことごとく「事件」に結び付いているというニュアンスがあるのである。

2013年2月15日金曜日

パーソナリティ障害を問い直す(4)


「解」を読み進める(2

ところでこの「解」という著作は、B6170ページという薄いものである。そこにKTは「事件」に至るまでの経過を短い章ごとに記載する。どこまで編集者の手が入っているかはわからないが、彼が獄中でしたためたらしい手書き原稿のコピーが部分的に掲載され、それがたしかにKT自身の文章であるという印象を与えている。文章を書く素人のものとしては比較的読みやすく、内容としてもまとまっている。その内容から少なくとも著者の中等度以上の知能レベルと文章の構成力をうかがわせる。
最初の「掲示板を始める」とそれに続く「埼玉での生活」では、KTがネットの掲示板に「依存」していたという状況が示されるが、おそらくKTの病理を知る手がかりになる重要な記載部分と言えるので少し詳しく見たい。その病理とは、彼が孤独に耐えられないということだ。彼に言わせると、彼は孤立とは恐怖そのものであるという。「高校時代は昼間は学校に行き、授業が終わると友人宅に直行して深夜まで遊び、休日は朝から友人と遊んでいました」とし、高卒後進んだ短大でも、寮生活で常に誰かと一緒に過ごし、長期休暇は高校時代同様友人宅に泊めてもらったという。つまり彼は人生の一時期までは、常に誰かと一緒に過ごすということ以外の生き方をしてこなかったことになる。そして埼玉の工場に派遣で働くようになってから、仕事が終わり寮に帰っても寝るには早すぎ、そこで初めて一人ですごす時間が出来た。それが彼にとっては地獄だったというのだ。彼は世の中から自分がたった一人取り残された感じがし、それは「マジックミラー越しに世界を見ているようなもの」であったという。つまりこちらは相手を見えても、相手が自分のことを見ていない。その状態が恐怖となるのだ。
 では彼は心の中に誰かを思い浮かべることでそれに耐えることが出来なかったのか?それについて彼自身が言う。「私が頭の中に友人を思い浮かべても、その友人は私のことは考えていない、と私は感じてしまうのだ」。そしてそのようなKTがその孤独感を癒す方法としてネットの掲示板を利用することが出来ることを知る。掲示板へのメッセージに対して登校すると、それに対して側メッセージをくれる人がいることで、彼はその人が事実上そばにいるのと同じであると感じて、一息つけるというわけだ。
ここら辺の記述は精神医学的にも興味深い。孤独が耐えられない、というのはもちろん程度問題であるにしても、それが以上に苦痛に感じられるという一群の人々がいる。それが境界パーソナリティ障害(BPD)と言われる人々である。KTがその病理を有しているかどうかは別として、それを関連付けさせるような記載と言える。
ただし孤独に耐えられないことが、BPDの病理を思い起こさせると言ったとたん、それとのかなりの相違も感じられるのもたしかだ。BPDの場合、ひとり暮らしが不得手、と言うわけでは必ずしもない。事実多くの人は独居生活を送る。しかし特に自分の意中の人の心が離れていくことに耐えがたい苦しみを感じるのだ。それがあたかも彼女たち(まあ、一応女性のほうが多いので、こう呼ばせていただく)の中に巣食う根源的な空虚さの痛みを思い出させるかのように。
 KTのケースでは、もう少しこの孤独の苦しみは即物的で、単純で、誤解を恐れずに言えば「生物学的」なニュアンスがある。要は孤独を埋めるのは誰でもいいのである。あたかも孤独という痛みが、他人からの注意という膏薬により単純に癒されるようなところがある。でもそれは単純ではあっても強烈で、待ったなしの飢餓感や性急さを生む。そしてそれが「事件」にも最終的に結びつくことになるのだ。
 いささかKTの病理の考察を急ぎすぎる嫌いがあるので、手記を読み進めよう。ただしこの孤独の耐え難さがきわめて重要なのは、これが事件を起こす一つの重要なファクターであったからだ。そしてもう一つのファクターも、実はこの手記のごく初期に姿を現す。