2012年10月10日水曜日

第10章 右脳は無意識なのか?(2)


右脳は何に特化しているのか? 
ショアが強調しているのは、右脳の眼窩前頭部(以下OFと略記する)における共感の機能である。この部分は倫理的、道徳的な行動にも関連し、要するに他人がどのような感情を持ち、どのように痛みを感じているかについての査定を行う部位である。もし脳のこの部分が破壊されると、人は反社会的な行動を平気でするようになるということだ。その意味でOFは超自我的な要素を持っているというのがショアの従来の考え方であるという。

さらにはOFは心に生じていることと現実との照合を行う上でも決定的な役割を持つという。自分が今考えていることが、現実にマッチしているのかを判断する能力。これと道徳的な関心という超自我的な要素とは実は強く関連している。今自分が言い、行っている事柄が、現実の周囲の人間や周囲で起きている事柄にとってどのような意味を持つのか。いわば外界からの知覚と、内的な空想とのすり合わせを行うという非常に高次な自我的、超自我的機能を行っているのもOFであるわけだ。これらの能力は無意識の役割として捉える事が出来る。
読者はここで、右脳の担当する無意識、ということと自我、超自我ということは矛盾していると感じるかもしれない。しかしそれは二つのモデルの混同から生じる疑問である。意識、前意識、無意識と言うのはいわゆる局所論的モデル、自我、超自我、エスとは構造論的モデル、と言われる。両方は別々のモデルとして心を説明し、しかも両者にはオーバーラップがある。たとえば自我の働きの中にも無意識的なものもある、という風に。ショアが提出しているモデルは、右脳が左脳の支配下で無意識的に、つまりバックグラウンドで実にさまざまな情報処理を行っているという事情なのである。
 コフート派の精神分析家ショアの最大の貢献は、彼が脳と心の接点について詳しく論じている点であろう。一世紀前に精神分析的な心についての理論が注意を促したのは、私たちが意識できない部分、すなわち無意識の役割の大きさである。フロイトは無意識をそこで様々な法則が働くような秩序を備えた構造とみなしたり、様々な欲動の渦巻く一種のカオスと捉えたりした。要するに彼にも無意識はつかみどころがなかったのである。夢分析などを考案することで、彼は無意識の法則を発見したかのように考えたのだろうが、決してそうではなかった。それが証拠に夢分析はフロイト以降決して「進歩」したとはいいがたいのだ。しかし一方で、心を扱うそれ以外の領域が急速に進歩した。それらが脳科学であり発達理論なのである。
 ここで読者の方は、脳科学と発達理論がこのようにペアで言及されることに気付かれるだろう。なぜ発達理論がこうも注目を浴びているのだろうか?それはおそらく人間の乳幼児がある種の観察材料になって様々な心身の機能の発達がいわば科学的に調べられるようになってきているという現状がある。乳幼児というのは、言葉は悪いが格好の観察対象なのである。いわば実験材料として乳幼児を用いるというニュアンスがここにはあるが、しかしその結果としてますます重要になってきているのが、乳幼児の脳の発達に母親とのかかわりが極めて重要であるということである。つまり乳幼児は科学的な観察の対象にされることが自分たちにとっても結果的に有益なことといえるのだ。
 発達論者が最近ますます注目しているのが、発達初期の乳幼児と母親の関係、特にその情緒的な交流の重要さであるという。早期の母子関係においては、極めて活発な情緒的な交流が行なわれ、いわば母子間の情動的な同調が起きる。そこで体験された音や匂いや感情などの体験は主として右脳に蓄積されていくという(Semrud-Clikeman and Hynd (1990)。生後の2年間は、脳の量が特に大きくなる時期であり、右の脳の容積は左より優位に大きいという (Matsuzawa, et al. 2001)。

Semrud-Clikeman, M., and Hynd, G., (1990) Right Hemisphere dysfunction in nonverbal learning disabilities: social, academic, and adaptive functioning in adults and children. Psychol. Bull, 107:196-209.
Matsuzawa, J., Matsui, M.et al. (2001) Age-related changes of brain gray and white matter in healthy infants and children. Cerebral. Cortex. 11:335-342.

右脳と自律神経(ANS)

右脳の機能として、これまで十分に扱ってこなかったものがある。それは自律神経の問題だ。「ジリツシンケイ?あまり聞かないなあ」、と読み飛ばしたくなるかもしれない。私たちの体のうち自由にならない部分、つまり意図的に動かせない部分は、みなこの自律神経が関与している。私たちは腕や足を自由に動かすことができる。しかし緊張して胸がどきどきしているので、心臓の鼓動をすこし遅くしたり、便秘気味だというので一生懸命大腸をくねらせたりすることはできない。それは、これらの臓器が、いわば第二の脳としての自律神経により働いているからだ。これから自律神経autonomic nervous systemを縮めて「ANS」と書き表すとするが、この自律神経という意味自体が、自分たちで勝手に動いて調節している神経系統、という意味であることはいうまでもない。そしてこのANSに深くかかわっているのが、右脳というわけだ。
 ANSでは二つのシステムが綱引きをしているのはご存知だろう。交感神経系は血圧を上げたり、心臓をドキドキさせたり、ということに関係し、いわばエネルギーを消費する方である。それに比べて夜に活発になる副交感神経(迷走神経)は省エネモードだ。ではこのANSが、「右脳=無意識」の議論にどのように結びつくのだろうか?そう、これを説明しておかなくてはならない。
 ANSがどうして無意識に関係しているのか?ひとつ例をあげよう。朝起きたあなたが、ふとそわそわしていることに気がつく。目もいつもよりさえているし、何か胸がドキドキしている。そして気がつく。「そうか、今日は会社でプレゼンの日なんだ。」
 この場合、あなたは今日は会社で「緊張を強いられることがある」という認識は完全な無意識ではない。しかしいつもにはない胸のドキドキを意識して「あれ?」と思った瞬間には頭になかったであろう。しかしそれを体、特に交感神経系のANSは知っていたということになる。ANSにはこのような性質がある。いったんは意識が「自分の身には~ということが起きるかもしれない」と判断すると、後はANSが自動的に体でそれを待ち受ける体制を作るのである。そしてこのANSの判断は正直である。もしあなたが「今日のプレゼンなんて楽勝だよ。緊張なんかしていないよ。」と人にもいい、自分でもそう思っているとしよう。でも心臓のドキドキや手足の震えはそれを裏切る形で体に表れるだろう。これはANSが無意識をあらわしているというわかりやすい例の一つといえる。