2012年10月9日火曜日

第10章 右脳は無意識なのか? (1)


アラン・ショアのこと
Alan Schore 好々爺といった感じ
私が最近注目している分析家にアラン・ショアAlan Schoreという人がいる。精神医学一般に幅広い学識を有し、2008年にシカゴで開かれた解離の国際学会でもプレナリースピーチをしていた。アメリカにはどうしてこんなに広い知識を持ち、これだけ多くの論文を書くことが出来るのだろうと思う人がたくさんいるが、彼もそのひとりである。愛着理論と精神分析と脳科学を渡り歩き、縦横無尽に論じるショアの代表的な書著Affect Dysregulation and Disorders of the Self (W.W. Norton & Company, 2003)8章に“The Right Brain as the Neurobiological Substratum of Freud’s Dynamic Unconscious”である。「力動的な無意識の神経生物学的な基盤としての右脳」と言うわけだが、正直、右脳と無意識を結びつけるのは性急ではないか、という印象がないわけではない。もちろん左右脳の機能分化はかなりあるとしても、右脳イコール無意識とは、あまり単純化しすぎではないかと考える。しかしそういえば少し古いがThe Right Brain and the Uncoscious 右脳と無意識」R.Joseph, Basic Books, 1992.という本の存在も気になる。そこで本章ではショアの諸説を紹介し、どこまで右脳=無意識という説に信憑性があるかを探ってみることにする。
           気になる本
なぜ左右脳は分かれているのか?
ところで読者はそもそも脳がどうして右脳と左脳に分かれているのかを不思議に思うかもしれない。それはよくわかっていない。しかし一ついえることは、左右脳の機能分化はかなり明確で、しかも相補的であるということだ。あたかも神が心のあり方の二重性、いわばロゴスとパトスの二つのために、それらを専門に扱う場所として左右の脳を分けたかのようである。右脳の感情的な情報の処理については、たとえば顔の感情を読み取る力は右脳が圧倒的に優れている、ということからも明らかである。そしてそれだけでなく、表情で感情表現をする際も、右脳の働きが大きい。そこで次に問題となるのが言語だ。私たちは考える。「感情が右脳なら、言語は左脳だろう。言語野も左脳にあるだろうし。」ところが必ずしもそうとはいえない。言語機能はむしろ左右脳にまたがっているというニュアンスがあるという。言葉の意味をつかさどるのはもちろん左脳の方だ。しかし感情的な単語を処理するのは右脳であるという。
 さらに身体感覚についてはどうか?右脳は身体マップを有して身体レベルで生じていることを常にモニターしているという。つまり感情、身体、それに言語の情緒的な側面まで右脳の支配下にあることになる。
上に示した論文では、こうした論拠を挙げた上で、ショア先生は次のように提案する。「フロイトの言う力動的な無意識は、右脳に存在する、階層的で自己組織化する調節システムが各瞬間に行っている活動に相当する」。他方ではフロイトは自我を人間の言語能力に多大に依拠するものと考えていたわけであるから、彼もある意味ではショアと同様のことを100年以上前に考えていたということになる。
 ところで無意識が右脳、意識が左脳、ということになると両者の力関係はどうなるのだろうか?右脳と左脳の間には、脳梁という3億本の神経回路の束がある。それが左右の脳の交通路であるが、それらはお互いをけん制したり、活性化したりということが起きているらしい。( Bloom, JS and Hynd,GW: The Role of the Corpus Callosum in InterhemisphericTransfer of Information: Excitation or Inhibition?  Neuropsychology Review, Vol. 15, No. 2, June 20055971) たとえば左脳の活性化は時には右脳を抑制することが知られるが、それが精神分析でいう抑圧に相当するということである。
 また逆に感情的に高ぶると言語野が抑制されるという研究もよく知られている。喧嘩の最中に、言葉が出なくなってしまうという体験をした方は多いだろう。これはいわば抑圧の逆方向というわけであるが、分析的にはどのように概念化されているかば明確ではない。この例に見られるように、右脳を無意識に置き換えるという作業は、これまで精神分析が漠然と概念化してきた無意識の内容を一気に複雑にしてしまう可能性を秘めているだろう。
素朴な疑問
ここでちょっと一休みをして、私自身の素朴な疑問を述べてみよう。アラン・ショアは偉大な精神医学者で、精神分析、脳科学、発達理論のすべてをカバーしつつ膨大な論文を書いている碩学であることはわかった。心を扱う学者としては最も高い素養を備えた研究者と言える。しかしやはり彼は精神分析の世界の人間なのである。一般にアメリカにおける「神経精神分析学」(ニューロサイコアナリシス。そういう分野が開拓されているのだ。)の流れは、「フロイトが言っていたのは、実は脳科学的にはこういうことだったのだ」と、結局フロイトの説を追認するといったニュアンスがある。フロイトが無意識といっていたのは、実は脳科学的にはどこどこの部分のことであった・・・・。でもそれは「フロイトの先見の明は大したものだ」と、古典的な分析家を満足させるのはいいとしても、どうも牽強付会という観を免れない。
右脳イコール無意識という仮説の妥当性を検討する為の一つの素材を提供しよう。いわゆるスプリットブレインという、左右をつなぐ脳梁を切断した人の所見が知られている。彼らの右脳と左脳に別々にアプローチをすることが出来るようになる点が非常に興味深いわけだが、左脳は左脳で指示に応答するし、右脳もまた同様である。ただ左脳には言語的にアプローチするのに対して、右脳には非言語的に、たとえば絵などによりアプローチするだけだ。右脳は右脳で、左脳は左脳で、それ自身が覚醒できるのである。よく引き合いに出される例では、患者の左手が奥さんの首を絞めようとしていて、右手の方は、その手を振り払おうとするといった動作が見られる(The Right Mind. Robert Ornstein. Hartcourt Brace & Company, 1997.)。
これは一見精神分析的にも説明できる気がする。右脳の無意識は奥さんの首を絞めようとする。左脳の意識はそれを止めようとする。この人は脳梁を切断する前には、奥さんの首を絞めたいという無意識的な願望を常に抑圧していた、ということになるだろう。しかしこれほど単純なのだろうか。たとえば同様の動作は多重人格の人々にも見られる。とすれば右脳は右脳で一つの意思を持った人格を形成しうる、とは考えられないだろうか。それとも左右の脳は、脳梁という連絡路が存在している限りにおいて、左の言語脳が右の感情脳を押さえ込むという形で、右脳に無意識的な役割を与えるというわけであろうか?