2012年10月11日木曜日

第10章 右脳は無意識なのか?-心理士への教訓



右脳を無意識の座と考えることで、心理士の患者への対応はどう変わるのだろうか? すくなくともフロイト的な意味での無意識とは別の無意識をイメージしなくてはならなくなるだろう。そして精神分析的な無意識の探求は、これまでと少し違った意味を持つことになる。もちろん心理士は患者の心を扱うわけであり、患者の心は患者の意識、無意識の双方を含む。しかし意識、無意識の間の関係性が、精神分析的なそれとはずいぶん違ったものになるのだ。
 本章では、ショアが示した無意識のとらえ方がおおむね無意識≒右脳であるということを示した。これは同時に、意識≒左脳、という主張であると理解することが出来るだろう。ここに言語の機能を重ね合わせるとどうか。言語野がほとんどの人について左脳に局在するとすれば、この議論は次のように言い換えることが出来る。
意識≒言葉の内容 (主として左脳の機能)
無意識≒言葉に伴う抑揚や感情(主として右脳の機能)
すると治療者の取るべきスタンスは、患者の言葉や症状が彼の無意識を象徴的に反映しているという精神分析的な考え方とはずいぶん違ったものとなる。言葉の意味とそれに伴う情緒は併存する。それは一方が他方を覆い隠すといった関係のみではない。両者はさまざまな関係を持ちつつ、平行して存在することになる。すると治療者は言葉の字義的な内容の分析にのみ専念するわけに行かなくなる。むしろその言葉にともなう抑揚や、感情、その時の患者の表情などから何かを感じ取らなくてはならない。それが患者の無意識を扱う、ということになるのだ。
 たとえば患者がセッションの冒頭で「今日は何も話すことがありません。」と治療者に伝えたとする。従来の精神分析的な考え方だと、「これは患者の側の何らかの抵抗の表れである」ということになるだろう。しかし右脳≒無意識に基づく考え方に従った場合は、まずはその言葉の解釈の前に、それが伴っている情緒的なトーンに注意を向けることになる。その時の患者の声が抑うつ的に響いていたり、倦怠感を漂わせていたら、言葉はそれらの情緒を伝えていることになる。またその言い方が何か挑発的であったり、とげがあると感じられたら、それは治療者に対する怒りの表現かもしれない。言葉に伴うこれらのトーンや響きが、あまりに言葉の内容と異なっている場合には、その言葉については「これは患者の側の抵抗の表れである」という考え方もあながち誤りではないであろう。「何も話すことがありません」という患者が実は切羽詰ったり、思いつめている様子を見せている場合にはなおさらだ。ただしこの「何も話すことがありません」が抵抗ではなく、その時の抑うつ的な気分のストレートな表現かもしれない。そしてその判断は、まさに治療者はその患者の言葉から「感じ取る」ものなのだ。
 左右脳により提供される言葉の両側面について考える際には、精神分析家ウィニコットの「真の自己」と「偽りの自己」という概念がうまく当てはまる。偽りの自己とはその人が被っている仮面、外皮のようなものだ。猫をかぶる、というアレに近い。治療者は患者と対面して、その仮面を通してその内部を感じ取る。それが真の自己に由来するもの、言葉に同時に込められた情動的な側面であり、それの理解や、それとのコミュニケーションを図るのだ。
 治療者が患者の言葉の「無意識的」すなわち情動的な側面をよりよく理解するためにはどうしたらいいか。それを「感じ取る」ための直感を鍛えることだろうか? しかしこれは言うはやさしく、行うは難し、である。より具体的には「患者との関係性を重んじよ」とか「ラポールを重視せよ」ということになるが、それは実は治療者自身の右脳≒無意識をしっかり用いよ、ということにもなる。ここでこれ以上の解説をするよりも、次のような「心得」を掲げておきたい。
「心理療法とは、治療者と患者の右脳≒無意識同士の交流にその本質部分があると認識せよ(あとは自分で考えよ)」。