2012年10月22日月曜日

第14章 報酬系という宿命 その2 (1)


快感原則について
  報酬系については、この「続・脳科学と心の臨床」の最初の章(第1章 報酬系という宿命)である程度論じたが、その続きは先延ばしにしておいた。なぜなら報酬系というテーマは非常に重要ではあるものの、読者にとっては必ずしも十分な関心を持たれていない可能性がからだ。そこで残りの議論はいわば付録のような位置づけをしたかったのである。
  まず第1章で論じた内容を簡単におさらいしたい。そこでは人は究極的に快感中枢の刺激を求めている、というテーマについて論じた。人は突き詰めれば快感を追求して動くのであり、理屈で動くのではない。それは私たちにとって一種の宿命なのだ。では何が人の快感中枢を刺激するかということが、実はきわめて込み入っているのである。私たちが何を美味しいと感じ、どんな曲に心を動かされ、どのような絵画を美しいと感じるか、は人により千差万別で、その選択は偶発的で、そこに具体的な理由らしきものが見つからない場合が大半なのだ。
  人は自らの報酬系を刺激するものを求めて動く、つまり快感を求めて行動するという仮説に立った原則を「快感原則」と呼ぼう。これは精神分析のフロイトが論じた快感原則pleasure principleとだいたい一致している。すでにみたように、報酬系を興奮させるものは、食べ物やセックスや薬物などの体験だけではない。愛着や自己達成などの精神的な満足体験も同様である。だから人が快感原則に従うと言っても、人間がそれだけ刹那的で享楽的であるということを意味するわけではない。
 ただしこの快感原則ということを考えた場合、いくつかの疑問がすぐに湧く。人は快感のみに生きているわけではない。かなり快感を我慢し、先延ばしし、あるいは苦痛にも耐えているではないか。そもそも快感を遅延(先延ばし)できるという能力は非常に重要である。もしそれが出来ないとしたら、人は即座に快感を味わうことにのみ走り、計画的に物事を行うことが一切出来なくなるあろう。この問題を快感原則だけから説明できるのだろうか?
 この問題に関して、第1章では、次のような論じ方をした。決め手は想像力である、と。人はまだ得ていない快楽を今得ていることを想像することで、現在の苦痛を切り抜ける。たとえば砂漠の向こうにオアシスがあることがわかっている場合は、水でのどを潤している自分を想像することが、そのために炎天下を何時間も歩く動因となる。このような過程を支えているのが、ドーパミン系のニューロンの興奮の仕組みである。ドーパミンニューロンの興奮には二つのパターンがあることはすでに示した。一つはトーン信号、もう一つはバースト信号である。バースト信号は、短時間で一気に見られ、実際に水を目の前にしたときも、砂漠の先にオアシスがあることを知った時も、あるいは水を飲むことを想像しても生じる。このようにバースト信号による報酬系の示す反応は、実際の快だけではなく、快の予想に関して反応する仕組みであると考えられているのである。リアルな想像によりバースト信号が生じさせ、いわば快感の味見をさせてもらえるということが、「これを実際に獲得したい」という気持ちにさせるのだ。

「不快原則」も必要になる
  このように快を先取りする際の想像力の重要性について触れたが、それでは苦痛に耐える際の私たちの行動はどのように説明されるべきであろうか?実はこちらの方は多少なりとも厄介である。結論から言えば私たちは快感原則だけではなく、不快原則と呼ぶべきものも想定しなくてはならなくなるのだ。このことを以下の例から説明しよう。
   ユーチューブに掲載されたある映像で、犬の「お預け」のシーンを見たが、これが非常に印象深かった。20匹ほどの犬が、自分たちの前にある複数の餌の入ったボールを前にして、ムチを持った飼い主の合図を待っている。ある犬はすでによだれをダラダラ流している。大抵の犬は居ても立っても居られない、とジタバタしながら、でも決してボールに口を近づけようとはしない。もしそんなことをしたら、飼い主のムチが飛んでくることをよく知っているからだ。(もちろんそのように調教してあるのである。)そして犬たちは、飼い主の合図により一斉に餌のボールに突進する。これを一匹の犬ではなく、それを20匹以上の犬が行うから壮観である。人間ではなく、動物が見せる快の遅延である。
 ここで犬たちの快感中枢で起きていることを見てみよう。目の前に餌のボールを出された時点で、快感を評価する想像力が働き、ドーパミン作動性のニューロンのバースト信号が生じる。「やった、これから餌だ!」という感激である。これはすでに見たとおりだ。しかしこのバーストはすぐ止む。感激そのものはいつまでも続かないからだ。
 ところでこの状況で犬が査定を繰り返すのは、餌を実際に食べているときの快感ばかりではない。そんなことをしたら飼い主にムチ打たれることを犬たちは良く知っている。それを想像した「イタい、コワい!」感もあるだろう。この不快の方をも査定しているのだ。両者を比べて後者の方が凌駕しているから犬は「お預け」を選択するのだろう。もし逆の関係なら・・・・ムチが身体に食い込む苦痛に耐えながらも餌に食らいつくことになるのだ。ということは犬の脳内には、そして人間の脳内には、将来の不快を評価するだけの想像力も存在することになる。犬は許可なしに餌に食いついた際の快感も、ムチで打たれた際の苦痛も、かなり正確に予測することが出来る。それにより自らの行動を律していることになる。とすると先ほど述べた快感原則の意味は少し変わってくることになろう。私たちはすでに「人は自らの報酬系を刺激するものを求めて動く、つまり快感を求めて行動する」という原則を快感原則と呼んだのであった。しかし実際にはいかに報酬系を刺激するとしてもそれに向かわない行動もある。その行動が同時に伴う不快や苦痛を想像し、それが快感を上回った場合である。先ほどの犬の例では、鞭打たれた場合に感じるであろうと苦痛が、餌に食いつくときに体験するであろう快感を上回った場合である。するとここで私たちはもう一つの原則を考えざるを得なくなる。それが「不快原則」ということになる。やはりこの二つを考えなくては理屈に合わなくなるのである。
 この様に快感も不快も、それを実際に体験する前に、想像力によってその大きさを査定する必要があるが、そのためにはそれなりの知能レベルが備わっていなければならないことになる。だからたとえば爬虫類のイグアナに「お預け」はむりだろう。餌に食らいついたときの快感も、鞭打たれる苦しみも、その脳幹レベルのみの脳ではありありと想像できなくてはならないのだ。しかし実はイグアナは知覚にキャベツを見つけてそこまで這って行くくらいの苦労は厭わないだろう。(イグアナは草食だそうである。)それはイグアナなりに想像力を働かせた満足体験の遅延ではないか? たぶんそうではないだろう。餌とみなされるものが目に入った時に、そこに接近するという行動自体がもう脳にプログラムされている。それを第1章では、本能的、ないしは反射的な行動として理解したのであった。

快感原則+不快原則=現実原則
 最後にもう一度まとめてみよう。人(犬)は常に、次の瞬間にある行動を選択した場合の快と、不快を別々に想像して査定し、比べている。そしてその絶対値の大きい方を選択しているのだ。目の前の餌に突進するという行動は、それによる快と、不快を比べた上で、例えば不快の方が大きい、という判断のもとに抑制される。査定の結果が逆だったら餌に突進することになる。もちろん査定が間違っていることはある。するとその時点で行動は方向転換することになる。そしてこのような仕組みを支えているのが、快感原則と不快原則なのだ。そして場合によっては後者が優勢に働いている場合もある。実際に快を遅延しているというよりは、常に不快を回避し続けているような行動もある。先ほどの犬の例も、近い将来の報酬を見つめて我慢しているというよりは、各瞬間に鞭を打たれることを回避しながら、刹那的に生きているにすぎないのであろう。だから餌を前にした犬たちは、今にも突進しそうな衝動と戦っているために、あのように居ても立ってもいられない様子を示すのだ。
  人が快感原則と不快原則の両方に支配され、どちらか優勢な方に従うという原則を何と呼ぶべきだろうか? もうこれは「現実原則」としか言いようがない。そしてこれもフロイトが使った概念である。ちなみにイグアナは快の遅延が出来ず、お預けも無理だろうという話だったが、ちょっと誤魔化しがあった。イグアナだってお預けは出来るであろう。目の前のキャベツの向こうに、天敵のカラスの姿が見えたら、それが去ってしまわない限り、「お預け」にならざるを得ないだろう。それがイグアナの日常における「現実」だ。おそらくこの種の現実原則に非常に適応しているから、これらの生物は生き残っているのである。