2012年9月29日土曜日

第6章 夢と脳科学―心理士への教訓

 教訓どころか、私はこの章を書くことで心理士の心に悪い影響を与えているのかもしれない。夢の素材はランダムだなどと言っているからだ。来談者の夢の報告を聞いてその象徴的な意味を考えることにエネルギーを注いでいる臨床家にとっては全くもって失礼な話である。
ただし私は夢というよりは心の在り方一般についてのランダム性を考えている。来談者の何気ない一言、ふるまいの一つ一つに意味を見出そうという立場を私は取らない。もちろんそれがある程度透けて見える場合には話は別である。そのような一言、ふるまいだってもちろんあり、患者にそれを見る手助けをすることは、心理療法の醍醐味の一つである。)

 これまでも述べたように、意識的な活動は無意識=ニューラルネットワークの自律性を反映しているというところがある。それに意味が与えられるのは言葉が出てきた後、行動を起こした後というニュアンスがあるのだ。意識がその言葉や行動を、自分が自発的に行ったものと錯覚して、その理由づけ、後付けをする。

ただしここで脳のさいころの転がし方にはやはりパターンとか癖があることも無視できない。おそらく治療の一つの目標は、それを来談者と一緒に探るということかもしれない。そのためには来談者もその行動が自分のもの、という感覚をいったん捨てて、他人事のように考えるとよい。脳の観察を治療者と行うのだ。そしてそれは夢についてもいえるのである。
私が信頼する分析家の一人Dr.Gabbardの最近の精神分析のテクストにも、夢解釈の技法についての言及がある。それによれば患者が夢について報告した際に、それに対する最も有用なアプローチは、「その夢について思いつくことを仰ってください」であるということだ。つまり夢そのものに対する患者の思考について聞くことなく、夢の意味することを知っているかのように語るべきではないというわけである。 
以上のことから私が強調したいのは、脳科学的に夢の在り方を考えた場合、少なくともその意味を探ることが来談者の心を深堀りしていく、という単純なものではないということである。夢は脳の自律的な活動の結果であり、その成立過程にはあまりにわからないことが多い。もしかしたらフロイトが考えたように、抑圧された無意識内容が形を変えたものかもしれない。しかしそれにしてはその無意識内容の解釈の方法はあまりにも多く、おそらく治療者の数ほどの解釈が成り立ってしまう。そしてホブソンらの説が正しいのであれば、少なくとも夢の素材そのものはかなり蓋然性があり、偶発的なものらしい。すると素材そのものよりは、それをもとにして出来上がった内容にこそ無意識=脳の神秘がある。そしてその仕組みはほとんどわかっていない。
 だから夢の解釈を試みることは、例えば曲から、作品からその人の無意識を探ろうという試みに似ている。人はそれに関心があるだろうか?むしろ曲を、絵画をそのものとしてとらえ、その価値を見出すだろう。曲にしろ絵画にしろ、作者を離れて皆のものになるというところがある。作品は未知の力がその作者の脳を借りて生まれたというニュアンスがある。それのもとになった作者の無意識を探るということには人はあまり関心を示さないだろう。
私は来談者の語る夢に意味を見出すべきではないと言っているわけではない。ただし夢はそこに隠された意味を追求するにはあまり適していないと考える。夢は脳が描いた一種の作品であり、むしろそれをどう感じるか、そこから何を連想するかなのである。その意味で夢の扱い方はロールシャッハ的と言えるだろうか?
 ある来談者が、すでに何年か前に亡くなった母親が夢に出てきたと報告する。その夢の中で彼女は母親を罵倒していたという。穏やかな関係にあった母親を罵倒している自分を夢で見て、その来談者は心配していた。「私の中に母親への怒りや憎しみがどこかにあったということでしょうか?」
そのような夢に対する対応は、次のようにあるべきだろう。「お母さんを罵倒している夢をたまたま見てしまったんですね。その夢がどこから来たかは、あまり気にする必要はないと思いますが、そのような夢を見たあなたの反応はいかがですか?」
それに対して彼女はこう答えるだろう。「いや、実際に私は母をそんなに責めたことなどなかったし、そうしようと思ったことも思い出せません。」 「それじゃびっくりなさったでしょうね。現実とかけ離れた夢も人は見るものです。でも夢の中であってもお母さんを罵倒したことがそこまで後ろめたいとしたら、それはどういうことでしょうね。だって親子の間の言い合いなんて、普通にありませんか?」
読者はあまりに当り前で表面的なこの対応に失望するかもしれないが、夢の生成過程がほとんどわかっていない以上このくらいの対応しかできないだろう。
夢は意味がないとあまり強調し過ぎないように、最後に一つコメントを付け加えたい。夢の内容の中には、それがフラッシュバックの色彩を持つものがある。その場合はむしろそれをフラッシュバックの一種を扱う必要が生じる。繰り返し夢に訪れる外傷的なシーンは、それ自体が過去に生じたトラウマの反映である可能性があり、その内容を扱う治療的な必然性があると考えるべきであろう。しかしその場合も、Dr.Gabbardの示唆の通り、その夢の内容についての患者の反応を最初に尋ねる必要がある。その夢に対する同様や嫌悪感、恐怖などがその外傷性を間接的に示す場合が少なくないからである。