2012年9月28日金曜日

第6章 夢と脳科学

  今朝は壮大な夢を見て目が覚めた・・・。起きてしばらくはそのパノラマのように展開する内容を思い出し、そこに暗示された様々な真理(のごとく感じられるもの)の奥深さに胸打たれ、なんとすごいものを見たのだろう?と呆然としている。そのうち・・・・感動の記憶を残したまま細部がどんどん抜け落ちていく。そのうち、あれは何だったんだろう、と首をかしげながら布団から起き上がる。

夢の過程は、私たちの精神活動の中で最も複雑なもののひとつである。その内容は奇抜で、時には意味シンで暗示的で、時にはグロレスクでまったくナンセンスである。これこそがネットワークの自律性のひとつの典型的な表れといえるのだ。しかし心の臨床では、やはり夢は別格の扱いを受けてしかるべきであろう。そこでここに新たに章を設けて、夢の問題について論じたい。
 フロイトが作り上げた精神分析理論はそれが実はきわめて秩序だった意味の生成過程であるという前提の上に成り立っていた。それ以来精神分析家の多くが、そしておそらくそれ以上に多くの患者が、夢の内容から意味を見出そうとして頭を悩ませてきた。しかし夢の理論がフロイト以来長足の進歩を遂げたということを私たちは聞かない。たとえば葉巻という夢の内容が何を最も象徴しているかについての実証的な研究・・・・などというものは存在しないのである。
 そのような夢の研究の歴史に、一つのセンセーショナルな影響を与えたのが、ハーバード大学のマッカーリーとホブソンの提唱した「賦活化・生成仮説」というものである。1977年の説であるから、35年前ということになり、もう相当古い説だ。実はこれは前書「脳科学と心の臨床」に短い形で記載してあるので少し引用しよう。

アラン・ホブソンというハーバードの研究者は,1970年代に,夢に関する独自の仮説を提出した。それが賦活化・生成仮説activation-synthesis hypothesisと呼ばれるものであった。それは,REM睡眠中は主として脳幹からPGO波といわれるパルスがランダムに脳を活性化し,それが夢と関係しているのではないかという説である。脳はいわば自分自身を刺激してさまざまなイメージを生み出し,それをつなげる形でストーリーを作る。それが夢であり,その具体的な素材には特に象徴的な意味はないというわけである。
 ホブソンはまた,睡眠中の神経伝達物質の切り替わりにも注目した。覚醒時に活躍する神経伝達物質であるノルエピネフリンとセロトニンは,REM睡眠中はアセチルコリンへとスイッチすることで,運動神経の信号は遮断されることになり,体は動けなくなる。またノルエピネフリンとセロトニンは理性的な判断や記憶に欠かせないが,それが遮断されることで夢はあれだけ荒唐無稽で,しかもなかなか記憶を残すことができないという。 この仮説は少なくともそれまで多くの人に信じられていたフロイトの仮説に対する正面切ったアンチテーゼということができる(Hobson, 2002)。

 以上のホブソンの理論にはあまり海馬の話は出てこないが,最近の夢理論は,より海馬に焦点を当てたものとなっている。海馬ではさまざまな昼間の体験の記憶が,鋳型に記されて保存されているという事情を[前書(脳科学と心の臨床)で]説明したが,夢の際は日中の記憶のさまざまな組み換えがなされ,それが夢に反映しているらしい。池谷裕二氏は海馬についての第一線での研究者であるが,彼によれば夢では海馬が中心となって,日中の体験を引き出し,その断片をでたらめに組み合わせているということである(池谷他,2002)。たとえば断片的な記憶が五つあり,それが時系列的にはA,B,C,D,Eという順番で起きたとする。すると夢ではAにはCを,DにはBを,というふうにつなげて,そこに新しい意味が生まれるかを検討する。そしてその間は外界からの情報を一切遮断する必要があり,またその内容を実行してしまわないように,筋肉も動かないほうがよく,そのために感覚入力の遮断や,抗重力筋の麻痺は,どちらもREM期の特徴となっているのだ。
ただしREMは記憶の定着に役に立つという説に関しては,逆にREMを抑制する抗うつ剤を使っても記憶が衰えないことも知られており,かんたんに結論は出ないようである。 REM期のもう一つの特徴として,前頭葉の機能が低下することで先述の,理性的,批判的思考の抑制が生じるということもあげられる。(脳科学と心の臨床、P132

賦活化・生成仮説について少し詳しく説明したわけであるが、たとえばネットで検索をしてみても、夢に関する著書を読んでも、このホブソン達の説が主流になっているかといえばそうではない。夢を分析可能なものとみなし、そこに様々な意味を見いだすという臨床活動を続けている人たちも、まだ沢山いるだろう。そもそも夢の分析を中心とするユング派の精神分析的治療が成り立っているということ自体がその証である。
 夢の理論について私自身が考えていることは、ホブソンの説とフロイトの説のどちらでもあって、どちらでもないようなところがある。ホブソンの説のように、夢の素材は確かにランダム性を持つかもしれない。しかし驚くのはそれをもとにストーリーを組み上げる脳の自律性なのである。そこにはフロイトが論じた様々なメカニズムが働いている可能性があるが、それを明らかにするだけの学問的な蓄積を私たちは持っていない。とにかく何らかのきわめて複雑で精巧なメカニズムがあるから、私たちはその結果として生まれる科学的な発見や芸術的な創造物に感動するのである。
 夢の素材がランダムであるということは、それ自身に深い意味を見出すことはあまりできないということだ。例えば私の見る夢の中には昔住んでいた田舎の雰囲気も出てくるし、私が小さい頃の母親も出てくる。家人が出てくることもある。今日の夢になぜ父親が出てこず、私がよく知る患者の顔が浮かばなかったかに深い理由などない。たまたまそれらがピックアップされたのだ。しかしそれが極めて入りくんだストーリーラインの中に組み込まれて仕上がってくる。よくぞこんな素材でそこまで、というような緻密さや情緒的な説得力なのだ。そしてそのストーリーラインを作っているのは脳の活動である。その合成の力こそ驚くべきである。
 私が述べたこの視点と、フロイトの精神分析的な視点との違いをおわかりだろうか? フロイトは、夢が無意識的な願望などを極めて上手く包み隠すことに驚いた。そしてそこにいくつかのメカニズムを考えた。それらが(1)圧縮の作業、(2)移動の作業、(3)戯曲化、(4)理解可能にするための整理ないしは解釈、と言われるものである。そして最も重要な意味を持つのは、その素材なのである。なぜならそれが抑圧され、夢によって形を変えて表れることがその人の病理を表すのであるから。しかし私の立場は、本来は無意識内容というよりはランダム的に与えられた素材を使ってストーリーを紡ぎあげるメカニズムこそが驚くべきであり、たとえ夢がいかに意味深長でも、その素材の持つ意味を追求することには限界があるというものだ。なぜならそこには根本にはランダム性、カオス的な性質が横たわっているからである。
 ところで前章ではニューラルネットワークの創造的な課程について述べたが、この夢の課程に特徴的なのは、意識の受身的な性質がさらに明らかだということである。私たちは夢に圧倒され、一大スペクタクルを見たような気がする。ただし少なくとも起きて5分程度までは。そのうちその圧倒的な印象も、その内容も霞のように消えていくのが普通だからだ。しかしともかくも私たちは完全に受け手であり、観客の側に立たされる。それは「いいメロディーが思い浮かんだ」「いいストーリーラインを思いついた」という想像プロセスに多少なりとも見られる能動感が既になくなっている。
ただし脳の側の自律性ということについてその精巧さを強調した後に言うのも矛盾しているようだが、その「質」については疑問である場合も少なくない。仮に特殊な機材を装着することで、人は30分の間のレム睡眠の継続時間に起きたス―トーリーラインを完璧に再構成でき、それを映画に出来たとしよう。それを見た人の評価はきっと散々だろう。夢の話の展開は突拍子もなく、ちぐはぐでナンセンスである。その夢の内容に感動を覚える、というのはそのクオリティーの高さというよりは、それを見る脳が同時に情緒的な反応を起こしやすいという条件化にあるからであろう。だから覚醒した直後はその夢の内容に感動して泣くようなことがあっても、5分ほどしてみると、ケロッとして「オレはなんであんなことに泣いていたんだろう?」ということになる。
 以上のことから一つの結論が得られはしないだろうか?意識による介助のない創造過程は十分な彫琢が得られない可能性があると言うことである。ちょうどどんなに感動的な映画でも、個々のシーンを繋げる編集の作業が欠かせないのと同じように。脳の自動的な課程はちょうど長い糸が紡ぎ出されるだけであり、それを織って布にしていくのは意識による介入という可能性がある。