2012年9月25日火曜日

第5章 ニューラルネットワークとしての脳 (4)

錯覚としての能動性への左脳の関与

 
錯覚による能動性ということに関して、私は前書(脳科学と心の臨床)で、「言 い訳する左脳」として記載している。左脳とは不思議なもので、自分がやったことを把握して、それに言い訳を付けるという役目を持つ。人は自分自身の行動を観察して、あるいは思い出して「それは~と思ったからです」と理由付けする能力を持っているのだ。これも一種の錯覚としての能動感といえるだろう。
 この左脳の性質については、分断脳による実験がそれを顕著に示す。分断脳とは、右脳と左脳をつなぐ脳梁が切断された状態をいう。そのような人に対して実験を行うと聞いて、読者は「左右の脳を切り離す、なんてずいぶんひどいことをするな」、と思うだろうが、癲癇発作の広がりを抑えるという治療的な目的でその様な手術が行われることがある。そのような人に実験に協力してもらうのだ。ちなみに分断脳の状態の人に会って話しても、驚くほどに普通の印象を持つはずだという。つくづく脳は不思議な臓器である。 
 さてその状態にある人の右脳にだけある種の指示を出す。これは決して難しいことではない。左側の視野は右脳に行くことがわかっているから、左の視野のみに指示を与える文字を見せればいいのである。そこにたとえば「立ち上がって歩きなさい」と書く。すると被験者は実際に立ち上がって歩き出す。そこで左脳に「なぜ歩き出したのですか?」と尋ねる。これは単に口で問えばいい。言語野のある左脳の方がその言葉を理解するからである。すると被験者は「ちょっと飲み物を取りに行きたかったのです」などと適当なことを答えることが知られている。左右の脳が切断された状態だから、左脳は右脳に「歩きなさい」という指示が出ていることは知らないはずである。ということは左脳は自分の行動を見てから理由づけをしていることになる。平然と、ごく自然にそれを行うのだ。
 もちろん通常の私たちの脳は左右がつながっている。しかしそれでも似たようなことが生じている可能性がある。右脳がある動機を持って行動を起こし、左脳はもっぱらそれを「自分は~という理由でそれをやったのだ」と理由づけをし、実際にそのように信じ込むということが生じていることが想定されるのである。たとえば右脳は仕事に退屈をして気晴らしのために立ち上がってあるこうとしたとしても、左脳は意味もなく立ち上がるだけでは体裁が悪いので、「飲み物を取りに行こうとしているのだ」と周囲にも、自分にも言い聞かせる、という風にである。
 さてこの分断脳の例が「能動的な体験は、実は脳が勝手にさいころを転がしているのだ」とどうつながるのか?それは行動が分断脳の例のようにたとえ「他の脳」に促されたものであっても、脳はそれを能動的なものと信じ込むという性質があることを示しているのだ。


能動的でも無意識的な行動はある

 ここで改めて考えよう。能動的な行為と意識的な行為とは同じものなのだろうか? 当たり前な質問のようだが、実は微妙な問題でもある。これまでの話からも、能動感を伴っていても、意識されにくい行動は数多くあるのだ。例えば上の例に示したような、歩く、という行為はどうか?私たちは普通歩いている時、「まず右足を出して、ええっと、次は左足を出して・・・」と意識的に歩いているわけではない。ということはこれは半ば無意識的な行為ということになる。しかしそれはやはり能動的な行為に感じられる。なぜなら「ではあなたは歩くつもりはなかったんですか?誰かに歩かされていたのですか?」と問われれば、「いえ、そんなことはありません。ちゃんと自分で歩いていましたよ」と答えるだろうからだ。ということは私たちは能動的だが無意識的な行為について考えていることになる。
 ではそもそも意識的な行動とは何か? 脳科学的にいえば、意識的な行動とは前頭前野の活動を伴っているものだということになる。最近は意識を考える代わりに、いわゆるワーキングメモリー(作業記憶)を想定する傾向にあるが、これはある意味で非常にわかりやすい。電話番号などを一生懸命に復唱しているような行為こそ、紛れもなく意識的な行動といえるからだ。
 そのワーキングメモリーの機能をつかさどっているのは、前頭葉の中でも
前部帯状回と背外側前頭前野の相互作用と考えられている。逆にいえば、ここの活動を伴っていないような行動は、あまり意識野に上っていない可能性が高い。それでもそこに能動感(つまり自分がやっているのだという感覚)が残るのは、最初はそれが意識的に行なわれ、徐々に脳のほかの部分により自動化されていったからだと考えることができる。
 同じ歩く、という行為でも、それが意識的な行為から無意識的、自動的な行為に変換していく例を考えることができる。しばらく病床で過ごした人が、リハビリで歩行訓練をする際を考えてみよう。彼にとっては最初の一歩はかなり意識的なものとなるはずだ。足をどの方向にどれだけ力を込めて出すかを考えながら行なう行為は、まさに能動的といえる。前部帯状回もフル回転していることだろう。ところがそのうちその作業に慣れ、それが当たり前になって来ると、前頭葉はその作業の多くを他の部位(大脳基底核、小脳など)に任せてしまう。でも「自分がやっているのだ」感は残存するのである。