2012年8月31日金曜日

まえがき (改稿)

 
  本書の出版元となる岩崎学術出版社によれば、前書「脳科学と心の臨床」(岩崎学術出版社、2006年)は静かに、しかし着々と売れているという。脳と心という題材は著者である私にとっては比較的楽しんで書けるテーマであるため、それでは続編を、ということになった。それが実現したのが本書である。
 それにしても「脳科学と心の臨床」というトピックはトリッキーである。というのも一見明確なテーマのようでいて、ほとんど「心について何でも論じてよい」というのに等しいからだ。言うまでもなく脳は心の座である。およそ脳が関与していない心などあり得ない。脳のあり方が心のあり方を100パーセント支配する。ということは、脳を語ることと心を語ることは本質的には同等のことなのだ。
 以上のことは純粋なスピリチュアリスト(精神論者)でなければ納得していただけるであろう。いうまでもなく私は非スピリテュアリストであり、むしろ唯脳論者である。(「唯脳論」とは養老猛司先生が使い出した言葉である。)脳に根ざしていない心についての議論の多くは空論だと考えている。

 ところで本書は基本的に心理療法家、あるいはそれを目指す人々のために書かれているが、その中には精神論的な考えを持つ人もかなりいらっしゃると思う。それは無理もないことだろう。そもそも臨床心理学は文科系の学問だからだ。彼らの大半は文学部で心理学を学んだはずだし、生物学とか脳科学に興味を持つ人よりは哲学や文学に関心を持つ人の方が多いだろう。私もそれを承知でこの本を書いている。だから彼らの次のような声はすでに聞こえてきている。「心を脳に還元できるわけがないではないか!」
 そして私はそれにも同意しているのだ。むしろそういう人の方が臨床に向いているとさえ思う。第一心を脳に還元しようにも、脳そのものについてわかっていることがきわめて少ない以上、「還元」しようがないのが現状だ。しかしそれらの若干スピリチュアリストが「入って」いる人でも、やはり本書の内容にある程度は納得していただけるように配慮したつもりである。というのもそれらの人でも「心は脳のあり方に影響を受けている」という事実は否定しようがないと思うからだ。そして私の書く内容も、そのレベルでの話である。「脳がこのような仕組みだから心がこのように生まれる」というような議論はほとんどできない。それは私の能力が足りないからだけではない。それほど脳のことは、専門家の間でもわかっていないからだ。しかし「脳がこんな仕組みを持つことが、心の在り方にこのように影響を与えているかもしれない」くらいの議論だったらできるのである。

 ところで本書は、ただの「脳科学の本」ではないことはもうお断りする必要はないだろう。前書(「脳科学と心の臨床」)でもそうしたように、脳についての解説の間に、「臨床心理士へのアドバイス」という項目をあちこちに挿入している。これは読者の皆さんが脳について知ることで、患者に対する見方がどのように変わる可能性があるのかについてのヒントを書いたものだ。正直な話、この部分がなかったら、本書はできそこないの脳の解説書で終わってしまうことは間違いない。分量としては少ない「臨床心理士へのアドバイス」は、実は本書で最終的に言いたいこと、エッセンスのようなものと考えていただきたい。
 いささか屁理屈めいた前書きになったが、読者の皆さんには最後までお付き合いをいただくことを切に望む。