2012年8月23日木曜日

報酬系の続き(8)


私たちの苦痛の多くは、その多くが、すでに獲得したものを喪失して行く過程で生じることなのだ。(ご存知なかった方もいらっしゃるかもしれない。)すでに獲得したものには、すぐに慣れてしまい、当たり前になって行く。すると今度はそれを失うことが苦痛になる。もし当たり前にならなければ、それを失うときの苦痛もごく少なくてすむのだが・・・。
例えば先日のロンドンオリンピックのメダル獲得選手の祝賀パレードで、水泳の北島選手は少しさびしそうだった。最後には銀メダルも取れたのに。そしてそれは過去の二大会で金メダルを4つも獲得しているからなのだ。すると今回も、という自分自身の欲も出る。周囲も期待する。「メダルは取って当たり前」、になる。すると胸に銀メダルを下げていても、彼には喪失体験になってしまうのだ。
人生の上で「金メダル」を取ること、賞をもらうこと、成功すること、それは嬉しいことだが、災いの元であるといっても過言ではない。将来の不幸をほぼ約束しているからだ。
読者は思うかもしれない。では獲得したものを当たり前に思わなければいいのではないか? 獲得したものを偶然の賜物、と思えば、それがなくなっても痛みを感じないのではないか? もちろんそうである。でもそれはある意味では人生を楽しまない、ということになってしまう。それは普通の人間には起きないことなのだ。楽しまないと決めても、脳はすでに楽しんでしまう…。ということでまた報酬系の話。
報酬系的に言えばこうである。レースに勝ち、金メダルを獲得したという時点で、ドーパミン作動性ニューロンのトーンが否が応でも上がる。それは快感を味わってしまったということであり、あとはそれを失うことが約束されてしまったのである。
ここでこんな思考実験を考える。喜んだときのドーパミンニューロンのトーンは、こんな風に描ける。

 

 しかし話はこれでは終わらない。その先を追ってみると、実はこんなことが起きている。
 

ここでマイナスの部分に落ち込むのはなぜか。それは金メダル選手としてのプライドが、少しずつ揺らぐからだ。それにこのサージはおそらく金メダルをもらったという事実だけでなく、それにより世間に騒がれ、周囲からちやほやされることの喜びも入っているだろう。するとそのうち世間は新しいヒーローをもてはやすようになり、試合に出ても金メダリストとしてのプライドを保つような記録を出すことが出来ないということで少しずつこの喜びが目減りしていく。またいったんもらったメダルは誰かに奪われることはないが、将棋や囲碁などのタイトルは、次の年に奪われることで、今度は上向きの山の高さと同じ深さの谷(苦痛)を経験することになるのだ。